運命

2010年7月5日

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武士道ワンポイントレッスン
15回目のテーマは「運命」
江戸時代は命をどのように考えていたのでしょう。
会津にとても悲しい話が残っていました。
会津藩家老萱野権兵衛の次男である郡長政は、九州・小笠原藩の育徳館に14歳で留学しました。食べ盛りの男子が見知らぬ町で勉学武道に勤しんでいましたが、母親に『食べ物が粗末だから、会津の懐かしい食べ物である干し柿を送って欲しい』という手紙をしたためました。
すると母親から食べ物は送られて来ずに、それを厳しくたしなめた手紙が届きました。
ここは私の憶測ですが、母親は送りたくても食べ物も送料もなかったのではないでしょうか。
母からの手紙で武士の子としての心構えを忘れた事に反省をして、二度と弱音をはかないためにか、大事に懐に入れて持ち歩いていました。
ところが、ある日母からの手紙を不用意にも落としてしまったのです。
運悪く、長正が文武共に成績優秀な事に嫉妬していた地元の同級生にひろわれてしまいました。
いくら返して欲しいと頼んでも返してもらえず、とうとう読まれて張り出されてしまいました。
それでみんなから、嘲られ、笑い者にされました。
これは藩を代表して留学に来ている身として、自藩に恥をかかせたことになったと判断した長政は、申し訳ないと言って16歳の誕生日(明治4年)に自刃するのです。
私が母親だったらどうだっただろうか?
狂うほど後悔したと思う。
後悔はいけない、反省しなさい何て、普段は言っている立場なのに、間違なくあんな手紙を出さなければ良かったと後悔し続けると思うのです。
でも彼の母は、狂いそうな程悲しみながらも、藩に対する面目を潰したのだから潔く責任を果たしたと思ったかもしれません。
公私を分けて考えて、迷惑をかけたことを主に考えたら、そういう気持ちになっていたかもしれません。
いやいや私みたいに後悔組だったかも…?
今になっては知る由もなく分かりませんが、少なくとも私よりずっと芯が強かったろうと思います。
実は、長政の父は戊辰戦争での会津藩の責任を一身に背負って明治2年に切腹していました。
だから、本当は萱野長政だったのに、父の姓を名乗ることが出来ず、母の姓である「郡」を名乗っていたのです。
悪い事もしていないのに罪を背負った夫の切腹から2年後に、また悪いことをなにもしていない息子が切腹したのです。
本当にやるせないとしか言い様のない出来事です。
運命って、自分が決めてきたと解釈すると、生きるのが楽になるそうです。
確かにそうだと思いました。
自己責任だから、何かを恨んだり、妬んだりしなくなりますよね。
自分が決めてきたんだから、どうやって乗り越えられるのか工夫しようと思えます。
長政の母は運命をどの様に思っていたのでしょう。
今は江戸時代に比べたらとても幸せな環境が整っていると思います。
それなのに、何の意味もなく、嫌になったから自殺をしてしまう。
江戸時代の切腹とは意味が違います。
強くなるには、あまりに恵まれすぎている環境では、余計に難しくなるのですね。
人間って、貧しい時や発展していない時の方が、他者のために生きられるんだなぁと思います。
アフリカの話でも言えてます。
アフリカでも、自分の食べるものさえ満足にない少年が、他人の小さい女の子の面倒を見て、その子の為に自分のわずかな食糧を分けてあげる。
そんな優しさを、苦しい最中に施せるのだそうです。
経済的豊かさを得るのは、人間が本来持っている神の心、天使の心と言っても良い思いやりの精神と引き換えなのかもしれません。
人間から工夫がなくなり、想像力と創造力がなくなり、そして、死後の世界を否定したときから、精神は敗退していくような気がします。
死後の世界は、今を生きるための指針になるような気がします。
だから、何かを、誰かを信じるのではなく、自分で考えて決めるべきことなのでしょう。
死後の世界がないと思えば、死んだら無になるから楽になれると思うでしょう。
でも死後の世界が今の世界の延長線上にあると考えたら、死んだら肉体がなくなるだけやりたいことができなくなり、返って辛さがましてしまう、と思ったら頑張ろうと思うでしょう。
だから、人に決めてもらわず自分で決めることだと思います。
そうすれば運命に対して悲観もしなくなり、どんな艱難辛苦にも立ち向かう勇気が生まれるのですから。

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