◎質問◎左翼的とは?

2010年7月9日

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相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第6回
【質問】
小学校PTA人権啓発委員企画の、人権啓発映画「袴田事件」を見てきました。
冤罪の映画で、正直、主婦が昼間見るには重すぎて後味はあまりよくありませんでした。
よく「人権啓発」は左翼的だと言いますが、こうして映画を見る活動も左翼的なのですか?
何が「左」なんだろう?と映画を見ている間ずっと考えていました。
神社や玉音放送、昭和天皇崩御の映像が織り交ぜられているのがいけないんだろうか?
死刑反対運動に繋がるのがいけないんだろうか?そもそも死刑反対は左翼的??
色々頭に浮かびましたが、よくわかりませんでした。
なにかご意見があったらお願いします。

【解答】
人権とは、字を見ただけで「人の権利」と直訳でき、もう少し意訳すると「人として生きる上での権利」と解釈できます。
私は「人権」を学ぶより「道徳」を学ぶ方が役に立つと思っています。
権利を主張するからには、責任が伴います。
しかし、今は責任転嫁や責任放棄が多く目に付く様になりました。
そして、直ぐに告訴すると言います。
以前私がまだ会社勤めをしていた時、チラシに飴玉をつけて配布したことがあります。
そこへ子供を自転車に乗せた若い父親が来ました。
細い道の小さな信号の所で止まっていたので、私が子供に「どうぞ」といって飴玉つきチラシをあげようとしたら
「何だ!危ないじゃないか!てめえ訴えるぞ」と言ったのです。
決して危険な目に遭わせてはいませんでした。
当時は今よりもっと人間ができていませんでしたから
「何を訴えるのですか? 告訴するならしてください」と言い返したかったです。
この程度の事で訴えるということが、自助努力もなにもする気のない人というイメージがあり、虚しい思いに駆られました。
西洋や近隣アジアの人の視点は常に外(他者)に向いていて、日本人の視点は常に内(自分の内面)に向いているように思います。
つまり、外に目が向いている人は、何かがあった時に他者の悪い所を指摘し、告訴する事で決着をつけることが多いようです。
だから弁護士の数も多いし、告訴の数も半端ではありません。
しかし、元来日本人は、先ず自分の悪いところを反省して、自分を変えることで問題を解決しようとするようです。
だから、告訴などあまり身近な事ではなかったし、少し前までは裁判で争っている事自体恥ずかしい事だというイメージがありました。
つまり、自分の権利の主張よりも、他者に不快感を与えない事を大切にしている国民だったからです。
左か右かというよりも、「人権」について改めて学ぶ必要があるのか? と私は思います。
いかなる人の事も「差別」はしてはならないことです。
日本人が近隣アジアの人を差別していると言いますが、地球上で差別は日常茶飯事ではありませんか?
ヨーロッパのアングロサクソン系の方々はアフリカ、アメリカ、アジア、を差別していたようですし、今も残っていると聞きます。
でも、その中で日本をこよなく愛してくださっている方々だって沢山いるのもまた事実です。
私も20代前半でアメリカにホームステイしていた時、差別されたという経験はありませんでした。
とても親切にしていただきました。
また武士道で著名な新渡戸稲造、世界的に有名な野口英世、各先生方の奥方様は白人です。
どちらの奥方様も肌の色の差別も、身体に不具合があることの差別もなさらず、夫に誠心誠意尽くし協力なさったようです。
このように考えたら、高らかに人権を騒ぎ立てるよりも、感謝をする心を育て、自信と誇りを持たせ、謙虚さを身につけさせた方が差別がなくなると思いませんか?
人権は「差別をしてはいけません」ということを教えるためですか?
それとも、差別されている人たちが、いじめられない様に強くなる方法を教えているのでしょうか?
差別をされる人に、自分を卑下している所があったなら、決して差別はなくなりません。
差別とイジメは全く同じ類のものです。
また、差別する人は、自分の立場が弱くなれば、差別をしていた人と仲良くしようとしますから、差別はしなくなります。
だから、差別される人が自信をもって強くなり、団結して差別を許さない体制を整えることの方が良いと思います。
人間は、限度をわきまえて、怒らなければならないときには怒る、折れなければいけない時は折れる、この調整能力があれば意外と被害に遭っても乗り越えられるものです。
人を動かして変化を起こすよりも、自分が変わることで難を逃れる道を選ぶ方が早いと思います。
今の日本であるならば、人権をわざわざ学ぶ必要があるのか?
考えてもよいと思います。
差別は絶対にいけないことであり、苛めも絶対にしてはならないことです。
人権があると教えるより、惻隠の情を教えた方が自発的に差別やイジメをしなくなるように思います。
そして、私は死刑というか、人の命を奪う行為は反対です。
でも左翼ではありませんし右翼でもありません。
死刑反対論者でもありません。
ただ、人の命は何人たりとも奪う権利はないという信念のもとに生きています。
私は、誰かを殺した人は絶対に恩赦がない終身刑にして、一生涯労働刑にした方がいいと思っています。
こういうところにお坊さんが行って説法をしてくるのが一番仏教の役割を突いているように思います。
一番の救いです。
この刑務所は病気になっても医者はいないし薬もないのです。
だけど、薬草は刑務所内にいっぱい植えてあります。
出来上がった食事など与えてもらえず、畑と田んぼが割り当てられていて、農作業は自由にできます。
自給自足で物々交換はOKです。
しかし、ここには電気の張り巡らされた塀の外にしか看守がいないから、殺人犯同士が何をしでかすか分かりません。
自分も殺人鬼なら、周囲も殺人鬼。
落ち着いて生活できるでしょうか?
死んだ方が楽だと思う囚人もでてくるのではないですか?
もちろん中の様子は隠しカメラなどで総て監視されています。
警察官が中へ入る時は、戦車で武装していきます。
これは恐怖のエリアになりますから、あそこに入るのは嫌だから殺人はやめようと思いたくもなるでしょう。
こんなことを考えていたら、右も左も関係なくなります。
だいたい自分の国を愛して、自分の国を誇りに思い、天皇陛下を敬うと右翼ですか?
じゃあ、左翼っていうのはその反対なのだろうから、自分の国を馬鹿にして、自分の権利ばかり主張して天皇陛下を馬鹿にしている人ということなのでしょうか?
同じ日本人としてあまりにもおかしな話ではないですか。
右だの左だの、総て人間がつけたものであって、そんなのに左右されている人がいるから蔓延すると私は思います。
それよりも、双方が協力して冤罪も死刑も起きない社会にするように努力すれば良いと思います。
それには犯罪をなくす方法を考えるのが一番手っ取り早いです。
犯罪をなくすためには、道徳心や公徳心を育て、修身教育を充実させるのが一番効果がでます。
つまり、左翼が訴えている事(冤罪、死刑、人権問題)を一掃させて無くすには、右翼が訴えている事(徳育教育を施す、愛国心を育てる、天皇陛下を敬う)をすれば望いが叶うということじゃないですか。考えれば考えるほど分からなくなることは、考えないのが一番。
それよりも左翼と右翼が協力し合えばいいと思いませんか?
右手と左手があるから便利だし、右足と左足があるから上手く歩けるのです。
右足と左足で、どっちが良いのか? どっちが大切か? などと言い合いをしていたって滑稽でしょう。
お互いに相手に感謝をすれば、上手く歩けますよ。
右だの左だのと考えているよりも、日本を母国とする子供にとって将来どうあったら良いのか?
何が必要なのか? という視点で考えた方が、惑わされないと思いますが、いかがでしょうか?

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