場 所: 池袋 がんばれ子供村ビル4階 研修室
東京都豊島区雑司が谷3-12-9
JR山手線・埼京線 池袋駅東口を出て東京音楽大学方面へ明治通りを歩き10分強歩いたあたりに最初の歩道橋があります。それを越えて最初の道(白鳥神社参道の横断幕あり)を左折します。次の十字路の右斜め前のビルです。武士道協会の看板や案内は掲示されておりませんので、ドアが開いていたら入ってきてください。
参加費: 1,000円(非会員)
内 容: 武士道憲章勉強会
【修養】武士道は、自己陶冶を精励する
自己陶冶とは、人間はいつも成長し続ける意識体であることを自覚し
、昨日の自分より少しでも成長しているかどうかを考えることから始まるのではないでしょうか。他人との比較ではなく自分との比較でしかないからです。それについて飯田氏がまとめてくださった文を掲載します。
・・・・・・飯田浩平・・・・・・・・・・
自己陶冶とは何か。「陶冶」は辞書では、人を教え導き、立派なものにすると出てくる。付け加えれば、陶器の如く型にはめて焼き上げるのではなく、それ以上にそのモノの特質を最大限に引き出す方向で、理想的な姿にする意である、との事。それ故に「自己陶冶」は概ね、自分が自分の心を知り、その価値を最大限に発揮する、という方向性であると思われる。そのため、日本人の根本にある自然的感覚(――民族精神、宗教心という以上のもの――)を知るためには神話と、それに根付いた武士の歴史や精神を改めて見る必要がある。
講話者の青山氏曰く、武士の起源は天孫降臨に伴った五伴緒神(いつとものおかみ)の子孫にあたる、中臣連などの世襲集団にある。また歴史の中でそれらは防人、舎人、侍、随身、近衛などの「武」の職能集団として広がりを見せ、行政代行としての国司、荘園時代の地主など、次第に領主の役割と混交し、江戸に至って儒教的道徳の役割(文治)が付与され、現代のいわゆる「武士」の概念が出来たのである。それ故に、武士道精神の淵源は五大神勅や三種の神器に現れている。例えば北畠親房『神皇正統記』の中で、八咫鏡について「鏡は一物を蓄えず。私の心無くして、万象を照らす。是非善悪の姿現れずと云ことなし。其姿に従いて感応するを徳とす。是正直の本源なり」と述べ、八尺瓊勾玉について「柔和善順を徳とす。慈悲の本源なり」と述べ 、叢雲剣について「剛利決断を徳とす。智恵の本源なり」とそれぞれ解釈している。本書は中世にして神仏儒融和の観点で説かれており、以上の三種の神器 の解釈のみをみても、文武一元による徳治――片輪にならず、自律独歩を持って人間性とする――を第一義にしていることは言うまでもない。
神話と同様、宮中で繰り返し行われる祭祀が「有職故実」として記録化され学問の対象となり、「武家故実」なども同様に、礼法として今尚その伝統は受け継がれている。このような礼法や学問なども畢竟、自然に、造化の理に、言い換えれば神に帰一し、人間性を自然美に昇華する事を目的とするものである。
以上の歴史に鑑みて、武士道は自然に立ち返り、清明心(きよきあかきこころ)を、すなわち常に我が心の中の天照大御神に照らし合わせて考える事が大前 提となる。清明心を以て判断する時、正邪善悪は相反する固定的概念ではなく、絶えず流動変化して止まない一つのエネルギー体と見ることが出来、ここにおいて善悪や上下や貴賎、苦楽などの区別は、「便宜上そう表現し得るもの」に留まり、末節的(宗教的、イデオロギー的、あるいは毀誉褒貶など人情的)な争いを生み出す雑念は消え、心の最深の欲求に従い、身体も言葉も動くようになる。この心境について、先人は「宇宙と一体になる」、「 神が宿る」などと表現する。
すなわち螺旋状に発展して止む事のない宇宙万物の中で、自らもその細胞の一部であることを全うし、己の生命力を最大限発揮しながらも調和を楽しみとするために、今、このひと時の一瞬一瞬を真剣に生きること、この心境をひたすら求める事が、究極の自己陶冶ではないかと言える。
講和者: 青山誠氏
講 評: 本多百代常務理事
担 当: 青山 誠常任幹事兼本部広報部長 090-4529-2549
2015年6月23日 06:48 AM | 活動報告 |
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