2月2日(日)【東京】11月度首都圏地区本部主催武士道勉強会を開催しました

2015年3月9日

日時: 2015年2月15日日曜日 9:30~正午閉会

場所: がんばれ子供村ビル2階談話室

演題: 会員と共に学ぶ武士道憲章 第8章 武士道は、心に惻隠の情を蔵する【惻隠】

講和者: 飯田浩平氏 武士道協会会員

会費: 非会員要会費(1,000円)

内容:
惻隠とは、簡単に言うと他者に対する優しさ、心配り、思いやり、のことです。しかし、親切にしようと思っても、やり過ぎてはお節介になってしまうように、他人の気持ちを慮ることは非常に難しく感じます。でも、他人の事も自分の事の様に思う気持ちなのですから、欲をすてて、他人の苦しみや悲しみ、喜びをまるで我事の様に感じられるように、自分の心を育てることなのです。分かりやすく言うと、共感的理解です。
同調するのではなく、あくまで共感なのです。自分が体験したことのない事でも、相手の気持ちを慮り、感情を分かち合うことで相手の苦しみを和らげる働きをできるからです。 難しく考えず、惻隠とは一緒に泣いて、一緒に笑って、毎日を楽しく生きましょう、というところから入れば分かり易いかもしれません。そこで、飯田さんの惻隠論をここでご紹介しましょう。

あらゆるイデオロギーや権力の変遷において、依然として輝き続ける英雄は誰かと問うとき、ある人は大楠公を、あるいは二宮尊徳を、あるいは大西郷を、あるいは山岡鉄舟をあげつらうであろう。彼ら聖賢の、乱世の奸雄と異なる所以は、軽薄なイデオロギーに囚われることなく、常に情義に根ざして事を為し、道念の中心として古今を通じ人心を結合し、いまだに光輝を増し続けるところにある。
さて、今まで『立志』や『清明』や『正義』、『忠誠』や『剛勇』や『廉恥』などについて討論してきたが、かような先人を胸に、さらに現代武士道として第一義を求めてゆくためには、どうしても先達の根本的な共通項として、思いやりの力、所謂『惻隠の情』に触れざるを得ない。
『惻隠』や『仁愛』は辞書を引けば「思いやり、哀れみいたむ心、情け深い心」などと出てくる。その語源は孟子公孫丑の四端説において「幼児が井戸に落ちようとすれば、誰もが心配して助けようとする心が生じる」という部分であり、ここでは「惻隠は仁のはじめ」という表現がされている。また我が国においては万葉集の柿本人麻呂の歌に『惻隠』の字を「ねもころ」(心が細やかに行き届いている様)と読む箇所がある。このように惻隠は一般的には、弱者に対するいたわりや、周囲への気配りという意味合いで使われている。
しかし先人の言行に接するに、彼らの想い(――というよりは在養せらるる気力――)は当節の世俗に留まることなく、先祖から子孫へ、あるいは自国から人類へ、あるいは太虚から永遠に及んで止まないのは先述した通りであり、此処から見るに『惻隠』は単なる弱者への労わりや気配りなるものではなく、「気配り」(エネルギーの流動、武道などの気を想像して頂けると有難い)の真たるものと言える。
例えば先人に私淑し、言行に学び、祭り、また自らの血肉とする事は先人に対する惻隠である。1月に靖国神社に詣でたが、その経歴を見ても高杉晋作ら志士が同志の魂を引き継がんとする祭祀を行うのを起源とされている。すなわち祭祀とは、同情に留まらずその信念を受け継ぎ、己の存在を他者の魂と一如に位置づける行為である。そしてそれは信念を貫き通して死んだ者にとっては、またとない思いやりである事は言うまでもない。またその思いに刺激され、子孫は先祖の血潮を受け継ぐのである。遊就館の展示には「おれは先に行く、お前たちはついて来い」といった遺書も散見された。
あるいは黙行などと言って食事の時の団欒を一時忘れ、無言且つ無心で食材をかみ締め、一口何十回も噛むことで食材に対する感謝を再確認する云々の修行があるらしいが、これなどは食材に対する祭祀でもあり、また己の胃腸に対しても、顎の筋肉にも脳の働きにも、食材や調理に携わる人間にも、すこぶる気遣い溢れる行為である。また掃除は己の汚した場所に対する惻隠であり、同じ場所に住む人への惻隠でもあるなど、全ての日常生活における凡所を祭祀に昇華する事が出来れば、これほど随神の道という名に相応しい生活は無い。逆に言えば、現代社会における醜俗な問題――いじめやモラハラなど――の多くは惻隠の不足に拠るものと言える。すなわち問題に関連する者は、惻隠の泉の枯れ果てた状態にあって、他人を思いやる余裕のないまま、毀誉や損得感情にとらわれて生きている。
ここにおいて重要なことは、如何に己が愛情や気配りに飢え渇していても、自発的に他者を思いやる力であり、さらに言えばその自発性に徹する覚悟である。徹する必要といえば、ガンジーの唱えたアヒンサーや無刀流などに代表される思想についても、そこに一分の混じり気(毀誉や恐怖など)があれば、過不及ある者を帰服させる事ができない。儒学に言う慎独や、禅における心身脱落、陽明学における致良知などは、この我欲の混じり気をなくし、あるがままの純真な姿を顕現するためのものである。あるがままの姿に立ち返ったとき、すなわち足るを知る素心に回帰したとき、はじめて心の芯から他者を大切にする情が芽生え、人心の融和に一歩近づく。
すなわち惻隠とはその一面をいえば情義に根ざす心境の、精神的血液の輸血と流動と融合である。歴史と言う縦軸を通じて祭祀や学問や武術によって道念の継承が行われ、現代という横軸を通じて情義の社会生活が営まれる事で、古今東西、血族も他人も関わらず、生物無生物に関わらず、情義と道念の連綿と紡がれる、玲瓏たる一円融合が成る。これが人類史を道義的に結ぶ中心力である。それ故に道徳を人間的価値とするのならば、惻隠の長養こそが人間の特質であり、また化育の意志に他ならないと言い得る。
然るに観念を以て是非善悪を分かち、情動において放心するのは本当の義ではない。古来より宗教やイデオロギーに携わる大多数(―というよりは九割九部九厘―)の人間はこの弊害を免れなかった。その歴史に学び、あくまで人間同士、真心で繋がり合うことを第一義とし、この世から争いごとを無くすことが現代人の道であり、これが本当の意味で矛を止める武士道であると言えないだろうか。 文責:飯田浩平

武士道ブログ

武士道協会会報誌