相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第7回
《質問》
私の身近な人で、潔癖な嫌中韓の方がいます。
まだ続く韓流ブームや菅談話にも反応しています。
気持ちは分かるので怒りたくなるのは分かりますが…
怒る事に意味はあるのでしょうか?
匿名希望
【お答え】
この類の内容では、村山元総理を思い出しますね。
隠れてやらないで、正々堂々とやって!
とおっしゃっりたい気持ちは良く解ります。
また保守派政治家の方でも、この様なことに関する件で訴訟問題にまで発展している方もいらっしゃいます。
確かに、保守派政治家の方は正しいことをおっしゃっていますが、やり方が過激に感じることもあり、反対派に対する説得力が不足しているように思います。
ここが『気持ちはわかるけど……意味あるの?』と感じてしまうところではないでしょうか。
私も大東亜戦争や竹島問題、尖閣諸島問題に対する中国や韓国のやり方には全く賛成出来ませんし、日本の対応にも納得いきません。
この65年間に日本のお陰で良くなった所は公表せず感謝せず、でも66年以上前のしかも悪いところのみを挙げてやり込める。
竹島や尖閣諸島も無法な乗っ取り行為だと感じていることも確かです。
でも、私は中国人は大好きですし、親友と思える友人が二人もいます。
また中国漢方では本当に助かっています。
韓国人も同じく嫌いとは思ったことがなく、以前知らずに仲の良くなった友だちが韓国人で良い人でしたし、朝鮮人参やトウモロコシ茶は養生に役立っています。
もちろん、中国料理も韓国料理も大好きです。
だから反嫌中韓でも、賛嫌中韓でもありません。
“嫌”と言っている間は相手と同じ土俵で争っているだけですから、五十歩百歩だと思っています。
また自分を否定する相手の事を良く思えるわけがありませんから、決別するだけです。
そうなればいつまでも闘争が続いてしまいます。
もっと高い位置に自分がいくように努力をしないと、相手の考えを改善させられません。
高い位置とは、地球の平和と人類全ての幸せを考えて判断をする状態を指しています。
決してお金や権力や地位を指していません。
己の意に反することも否定せず認めて、且つ自分の意見を持ち続け、バランスをとりながら相手の考えを正していく忍耐力と持久力がないと、自分の思いは遂げられないものです。
これが“人の器”というもので、許容量とも言います。
つまり“寛容さ”があるから、指示を得られるのです。
寛容さがないと、各々が自分の都合を必死に主張しあいます。
結局、闘うしかなくなります。
初めは言い争い程度が、激昂して腕力に頼ることになり、最後には武力でケリをつけるようになってしまいます。
それが戦争です。
又手放しで言いなりになっていては植民地にされてしまいます。
笑い事では済まされません。
だからこそ、核爆弾を全世界の国々が持とうとするのです。
私は原子力大賛成ですが、原子爆弾(核爆弾)は大反対です。
今の日本は核爆弾だけでなく原子力エネルギーまで反対しています。
爆弾とエネルギーの区別がついていない発言が目につきます。
また、憲法9条も平和を守る良い法律でしょうが、日本だけが守ろうとしても役には立ちません。
憲法9条は日本国内ではなく、世界の憲法にするよう活動をすべきであると思います。
テポドンを日本上空を飛ばすような不届きな国の憲法でなければ意味がないのです。
日本の平和ボケと言われる所以です。
日本国内では、もっと愛国心を育む教育を立憲する活動をして頂きたいと思います。
でも私も今回の菅総理のやり方はよくなかったと思います。
菅総理は元々が社会運動家だったとお伺いしていますから、想像の内ではないですか。
でもそういう民主党を与党に選んだのは日本国民です。
日本を良くするために投票した人が何人いるでしょうか?
信念なく自分の生活を良くする為に投票をしているから、実態のない甘い言葉についつい魅せられてしまうのです。
個々人の幸せも大切ですが、それを中心に考えていれば、まとまりがなく誘惑に惑わされやすくなります。
今の政治に不服ならば、今後は判断を間違えない国民にするために、どうしたら良いかを考えるのが、正しいことをする人間のやることだと思います。
良い政治家がいないと嘆いているなら、自分が政治家になればいいですし、良いと思う人を推挙すればいいわけです。
それもいないなら、教育を徹底していけばいいわけです。
何もしないで文句を言っていては民主国家は上手く立ち行きません。
私はその対策は、武士道を世界に広めることだと確信しています。
だから、時間がかかっても焦ったり苛々したりしません。
やることが見えていますから、対策を考えるだけですので、夢があります。
この世界を真から平和で幸せにしたいし、いつまでも青く美しい地球であってほしいのです。
目には目をで対応するような低次元で破壊的では、相手と同レベルでしかありません。
腹を立てたら冷静さを欠きますから、失敗しやすくなります。
正しいことを言っているのなら、なおのこと是正の仕方を冷静に多角面からの視野を持って考えないといけないと思います。
改革といっても、人が交代して金と権力と地位が譲渡されただけでは世の中は決して良くなりません。
世の中を良くしたいなら、怒りなどのバランスを欠く思いは捨てて冷静に無我無私の境地にならなければなりません。
山岡鉄舟のようにお金も権力も命も名誉も要らないとならなければなりません。
西郷隆盛のように、敵の立場も認めて、大局で判断をする力を持たなければなりません。
そうでなければ、改革をなど容易に成し遂げられるものではないのです。
それには人の心を育む“徳育教育”と偉人の生き方を学ぶ“活学”が必要不可欠です。
学校教育に道徳と活学を中心とした日本史(国史)をとりもどさなければなりません。
世界史が必修科目で日本史が選択科目では話になりません。
西欧のトップに認められるには、相手国の歴史や文化よりも自国の歴史と文化を知っている事が大切なのです
サッチャー氏がイギリスを再興させたのも、母国を誇りと思えるような教育を施したからです。
今の政府官僚が8月15日に靖国神社へ参拝をしないでいる日本人の姿は、父親が自分の子供を守って人を殺めたら、我が子からお墓参りを拒否されたのと同じだと思います。
我が子を守るために人を殺めた父親が死刑になった時、その子供本人やその家族や親戚が
『お父さんは人殺しで犯罪者だから墓参りには行くのをやめよう。
私を守ってくれた父親よりも、喧嘩相手の遺族の言うことの方が大事だよ。
先祖の墓に父は入れてはいけないと喧嘩相手の遺族達が言っているのに、私たち家族は父を先祖の墓に入れてしまったから、これ以上もめると嫌だし悪く思われると困るから、みんんなで命日にもお盆にも墓参りに行くのは止めておこう』
などと信じられないことを言っているのと同じではないでしょうか。
やはり、もう一度考え直さなければ、日本に明るい将来はないと言えます。
それには、独立している他国の政治に、外国人が口を挟んだり圧迫することが非常識なことなのだということを、誤解している人たちに理解し納得てもらえるようにするにはどうしたらよいかを考える必要があります。
それには誤解している人たちに“嫌”などといっていてはいつまでたっても平行線ですし、その“嫌”を付けて呼んでいる人たちこそが、幸せになってくれなければ、理解などしてくれるわけがないのです。
だから、地球のみんなが幸せであるように、誰もが健康であるように、全員の大難が小難に、小難が無難になりますようにと念(おも)うことが必要なのではないでしょうか。
その上で対策を考えなければ答が見つからないと思います。
だからこそ、感情的になっていたり、憎しみや怒りに包まれていたら、対策が練れないし案も浮かばなくなってしまいます。
怒る必要があるかないか?
これで答えは出たと思います。
相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第6回
【質問】
小学校PTA人権啓発委員企画の、人権啓発映画「袴田事件」を見てきました。
冤罪の映画で、正直、主婦が昼間見るには重すぎて後味はあまりよくありませんでした。
よく「人権啓発」は左翼的だと言いますが、こうして映画を見る活動も左翼的なのですか?
何が「左」なんだろう?と映画を見ている間ずっと考えていました。
神社や玉音放送、昭和天皇崩御の映像が織り交ぜられているのがいけないんだろうか?
死刑反対運動に繋がるのがいけないんだろうか?そもそも死刑反対は左翼的??
色々頭に浮かびましたが、よくわかりませんでした。
なにかご意見があったらお願いします。
【解答】
人権とは、字を見ただけで「人の権利」と直訳でき、もう少し意訳すると「人として生きる上での権利」と解釈できます。
私は「人権」を学ぶより「道徳」を学ぶ方が役に立つと思っています。
権利を主張するからには、責任が伴います。
しかし、今は責任転嫁や責任放棄が多く目に付く様になりました。
そして、直ぐに告訴すると言います。
以前私がまだ会社勤めをしていた時、チラシに飴玉をつけて配布したことがあります。
そこへ子供を自転車に乗せた若い父親が来ました。
細い道の小さな信号の所で止まっていたので、私が子供に「どうぞ」といって飴玉つきチラシをあげようとしたら
「何だ!危ないじゃないか!てめえ訴えるぞ」と言ったのです。
決して危険な目に遭わせてはいませんでした。
当時は今よりもっと人間ができていませんでしたから
「何を訴えるのですか? 告訴するならしてください」と言い返したかったです。
この程度の事で訴えるということが、自助努力もなにもする気のない人というイメージがあり、虚しい思いに駆られました。
西洋や近隣アジアの人の視点は常に外(他者)に向いていて、日本人の視点は常に内(自分の内面)に向いているように思います。
つまり、外に目が向いている人は、何かがあった時に他者の悪い所を指摘し、告訴する事で決着をつけることが多いようです。
だから弁護士の数も多いし、告訴の数も半端ではありません。
しかし、元来日本人は、先ず自分の悪いところを反省して、自分を変えることで問題を解決しようとするようです。
だから、告訴などあまり身近な事ではなかったし、少し前までは裁判で争っている事自体恥ずかしい事だというイメージがありました。
つまり、自分の権利の主張よりも、他者に不快感を与えない事を大切にしている国民だったからです。
左か右かというよりも、「人権」について改めて学ぶ必要があるのか? と私は思います。
いかなる人の事も「差別」はしてはならないことです。
日本人が近隣アジアの人を差別していると言いますが、地球上で差別は日常茶飯事ではありませんか?
ヨーロッパのアングロサクソン系の方々はアフリカ、アメリカ、アジア、を差別していたようですし、今も残っていると聞きます。
でも、その中で日本をこよなく愛してくださっている方々だって沢山いるのもまた事実です。
私も20代前半でアメリカにホームステイしていた時、差別されたという経験はありませんでした。
とても親切にしていただきました。
また武士道で著名な新渡戸稲造、世界的に有名な野口英世、各先生方の奥方様は白人です。
どちらの奥方様も肌の色の差別も、身体に不具合があることの差別もなさらず、夫に誠心誠意尽くし協力なさったようです。
このように考えたら、高らかに人権を騒ぎ立てるよりも、感謝をする心を育て、自信と誇りを持たせ、謙虚さを身につけさせた方が差別がなくなると思いませんか?
人権は「差別をしてはいけません」ということを教えるためですか?
それとも、差別されている人たちが、いじめられない様に強くなる方法を教えているのでしょうか?
差別をされる人に、自分を卑下している所があったなら、決して差別はなくなりません。
差別とイジメは全く同じ類のものです。
また、差別する人は、自分の立場が弱くなれば、差別をしていた人と仲良くしようとしますから、差別はしなくなります。
だから、差別される人が自信をもって強くなり、団結して差別を許さない体制を整えることの方が良いと思います。
人間は、限度をわきまえて、怒らなければならないときには怒る、折れなければいけない時は折れる、この調整能力があれば意外と被害に遭っても乗り越えられるものです。
人を動かして変化を起こすよりも、自分が変わることで難を逃れる道を選ぶ方が早いと思います。
今の日本であるならば、人権をわざわざ学ぶ必要があるのか?
考えてもよいと思います。
差別は絶対にいけないことであり、苛めも絶対にしてはならないことです。
人権があると教えるより、惻隠の情を教えた方が自発的に差別やイジメをしなくなるように思います。
そして、私は死刑というか、人の命を奪う行為は反対です。
でも左翼ではありませんし右翼でもありません。
死刑反対論者でもありません。
ただ、人の命は何人たりとも奪う権利はないという信念のもとに生きています。
私は、誰かを殺した人は絶対に恩赦がない終身刑にして、一生涯労働刑にした方がいいと思っています。
こういうところにお坊さんが行って説法をしてくるのが一番仏教の役割を突いているように思います。
一番の救いです。
この刑務所は病気になっても医者はいないし薬もないのです。
だけど、薬草は刑務所内にいっぱい植えてあります。
出来上がった食事など与えてもらえず、畑と田んぼが割り当てられていて、農作業は自由にできます。
自給自足で物々交換はOKです。
しかし、ここには電気の張り巡らされた塀の外にしか看守がいないから、殺人犯同士が何をしでかすか分かりません。
自分も殺人鬼なら、周囲も殺人鬼。
落ち着いて生活できるでしょうか?
死んだ方が楽だと思う囚人もでてくるのではないですか?
もちろん中の様子は隠しカメラなどで総て監視されています。
警察官が中へ入る時は、戦車で武装していきます。
これは恐怖のエリアになりますから、あそこに入るのは嫌だから殺人はやめようと思いたくもなるでしょう。
こんなことを考えていたら、右も左も関係なくなります。
だいたい自分の国を愛して、自分の国を誇りに思い、天皇陛下を敬うと右翼ですか?
じゃあ、左翼っていうのはその反対なのだろうから、自分の国を馬鹿にして、自分の権利ばかり主張して天皇陛下を馬鹿にしている人ということなのでしょうか?
同じ日本人としてあまりにもおかしな話ではないですか。
右だの左だの、総て人間がつけたものであって、そんなのに左右されている人がいるから蔓延すると私は思います。
それよりも、双方が協力して冤罪も死刑も起きない社会にするように努力すれば良いと思います。
それには犯罪をなくす方法を考えるのが一番手っ取り早いです。
犯罪をなくすためには、道徳心や公徳心を育て、修身教育を充実させるのが一番効果がでます。
つまり、左翼が訴えている事(冤罪、死刑、人権問題)を一掃させて無くすには、右翼が訴えている事(徳育教育を施す、愛国心を育てる、天皇陛下を敬う)をすれば望いが叶うということじゃないですか。考えれば考えるほど分からなくなることは、考えないのが一番。
それよりも左翼と右翼が協力し合えばいいと思いませんか?
右手と左手があるから便利だし、右足と左足があるから上手く歩けるのです。
右足と左足で、どっちが良いのか? どっちが大切か? などと言い合いをしていたって滑稽でしょう。
お互いに相手に感謝をすれば、上手く歩けますよ。
右だの左だのと考えているよりも、日本を母国とする子供にとって将来どうあったら良いのか?
何が必要なのか? という視点で考えた方が、惑わされないと思いますが、いかがでしょうか?
相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第五回
【相談】
春から後輩が入り
最近の私の大きな課題になっています。
本当にあのフォローで良かったのか、
本当に本人のためになっているのか、身になっているのか?
…考え出すとどんどん自信がなくなってきます。
忙しければ忙しいほど
後輩は全く悪くないのに一人でイライラしてしまったりもします。
そもそも自信がないということは
やはり自分本位になってしまっているのかなと思います。
一人で考えていても
結局後輩にとって1番の答えが出てこないと思うので、
アドバイス頂けたらと思います。
【解答】
一生懸命考えて、言い方を工夫したり、理解してもらえるようにと努力していても、思ったような結果が出ていないと感じた時、「指導方法が悪かったんだ」と自責の念に駆られてしまうのは、だれでも経験していることです。
そして、考えれば考えるほど「なぜ分かってもらえないのだろう」「自分の指導は聞きたくないのだろうか」というような、責める思いが頭を占めてくることもあります。
この責める気持ちを鎮めるために、自分が間違えていたのではないか・・・と自分を責めて否定してしまう。
ましてや自分にも上司がいて、先輩がいて、何かを指示して失敗した時には上司や先輩に迷惑をかけてしまう、と思ったらなおのこと、自分を否定して押さえてしまうこともあります。
それは最終的に大きなストレスになって、動けなくなってしまうこともあります。
あなたは、部署全体のチームワークを考えて、後輩の仕事の仕方を指導しなければならない立場の様にお見受けします。
あなたが注意をしたこと、指導をしたことを、後輩は総て言いなりになっているでしょうか?
後輩は後輩なりに考えて、自分で良いと思ったようにやってはいませんか?
言いなりになっているのも、後輩なりに考えて変化を加えているのも、これはどちらも後輩が決定して実行したことです。
あなたは、自分の損得を抜きにして、チームワークを考えて注意を与えたなら、その後のことは後輩にバトンタッチしてはいかがですか?
後輩とて大人ですから、責任を取ることだってできるはず。
要は良くなろうとしてあなたの意見を受け入れるのも、変わろうと努力するのも後輩次第です。
つまり、あなたの言葉を聞いてどうするかを決めるの選択権は後輩にあるということです。
選択権があるということは、当然責任も負う必要があるのです。
あなたはあなたが考えた一番良いと思うことを伝えるときに、後輩が受け入れやすい言葉を選んだり、気持ち的に受け入れやすいタイミングを選ぶことに、気持ちを集 中した方がよいのではありませんか。
後輩が受け止めた後のことを、あれやこれや考えているよりも、伝える時にひと工夫した方が先が開けるというものです。
例えば後輩には
「こういうやり方もあるの知っていた?」と軽く聞いてみてはいかがでしょう?
「私(僕)の時は、最初分からなくて先輩に教えてもらって分かったから、もしかしたらと思って声をかけてみたんだ」
というような言い方で、話を聞くか聞かないかを選択させてもらえるなら、後輩だってありがたいと思うはずです。
ここで 私(僕)は、としたのは、意外と 私(僕)も、といってしまがちだからです。
この「も」を使うのは「できなかった私と後輩も同じ」と暗黙の内に伝えていることになります。
だから後輩に「先輩は自分のことをできないと思っているんだ」と思わせてしまうんです。
意識的に「は」を使って、後輩は分かっているかもしれないけど、と肯定した言い方で語りかけていくと、後輩も素直になりやすいものです。
それでも後輩が機嫌を損ねたりしするようなら、それは後輩の性格が素直でないということ。
気にしないでやり過ごしてしまった方がいいです。
後輩にとってどれが一番良いかは、後輩自身が決めることです。
例えあなたの言いなりになって失敗したとしても、あなたの指導が悪いのではなく、そのやり方がその後輩には合っていなかった、或いは、総て言いなりではなく部分的に変えていたということも有り得ます。
それなら次は別のやり方をしてみようと、あなたは先輩としてもう一度一緒に考えてあげる、これが積極的思考ですし、また責任を果たしたことになるのではないでしょうか。
何度もやり直しながら進歩していくのが人間なのではないでしょうか。
後輩に指導をして、失敗していない内から後悔して、自分を責めて、ストレスになる。
これはマイナス思考だとおもいませんか?
これでは自分は能力がないからと自己否定して、何も言わずに我慢するのが一番だと非自発的態度になってしまいます。
これでは会社が良くなりません。
後輩に指導して、それが失敗だったら直ぐに別のやり方を考える、その時後輩の性格や能力も考える、そして、後輩が不安にならないように応援しながら一緒に成果を喜ぶ、これならストレスは起きません。
誰でも最初から必ず成功する方法を知っているくらいなら、苦労もなければ人生という学びすら不要になってしまいます。
努力した結果なら失敗は大手を振って受け入れましょう。
そして、その苦い思いから学ぶことは沢山あるはずです。
後輩だって、先輩はまるで自分のことの様に考えてくれる人だ、と思ってくれるはずです。
ポイントは、損得勘定(悪く思われたくない、失敗したくないなど・・・)を抜いて、後輩のことを自分の家族の様に思ってください。
きっと後輩にとって必要なことを言えるはずです。
一般的に答えましたので、もし違うと思ったらもう一度質問してください。
納得いくまで一緒に考えましょう。
相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第四回
【相談】
私は自分育てにハマり過ぎて、子育てを忘れてしまう時があります。バランス良く生きる為に、本多さんが心掛けていらっしゃる事があればアドバイスをお願いします。
【回答】
一言で言うと、それが正しいことなら「背を見て育つ」とい格言もありますから、そのまま続けていて宜しいのではないでしょうか?
真似られて困るようなことさえしなければ良いと思います。
たとえばパチンコにはまってしまったとか、ゲームにはまってしまったというのではないのですから。
一番良くない結果を招くことは、「こうでなければならない」「ああでなければならない」と決め込んで、自分をその枠をはめ込んでしまい、いつも他者の目線で自分を推し量ることではないでしょうか。
そうなると、必ず夫の行為行動にも、子供の行為行動にも同じ枠で推し量り、はめ込んでしまうことになります。
それは、冷静そうに見えて、冷静なのではなく、軌道を外れないようにしようとか、失敗をしないようにしようという恐れの方が強く出ているように思います。
それよりも、限界を決めずにできる限り成長したいという思いを大切にした方が結果も良くなると思います。
想像とは夢を持つことで、創造はその夢を具現化して実現することです。
このどちらの「そうぞう」の力も子供に欲しい力ですよね。
要は、他人目線を基準にした子育てだと、想像力は育ちませんし、創造することすらおぼつきません。
そのような面白みのない子供に育てるくらいなら、母親が信念をもって父親と志を同じくして邁進する姿を見せていた方が、よほど子供にとって活学となるのではないでしょうか?
必要なことは、「ありがとう、応援してくれて」と子供の努力に対して報いるこだと思います。
自分のやりたいことを我慢して子供のためにと思って何かをした場合、人間なら必ず、
「これだけ子供のためにしているのに・・・」
といった感情が起きるはずです。それよりも、
「本当に応援してくれてありがとう、あなたが応援してくれるから幸せよ」
と言われて育った方が子供の精神衛生上良いと思います。
たとえ幼くても、自分が人の役に立っているんだ!!と自覚しながら育てば自信がつきます。
そして、人の役に立つことは嬉しいことだという経験も積めて、心を育むことができます。
ご自身のしたいことをしながら子供の心も育つなんて、一石二鳥ではないですか。
いかがでしょうか?
まずはご自身が自信を持って子育てをしてください。
大丈夫です、間違ったことをしていないのですから。
相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第三回
【質問】
この間、仕事で上司に絞られ、ホントに自分は甘いな~と思いました。
上司が怒らずにすむような状況を作っていかないと、みんながしんどいなと思います。
上司に怒られてる時、じっと上司の顔見ながら、しみじみおもいました。
『リーダーなんだから』と言われ、(そんな器じゃないですよ~)と思うのは、逃げですかね(笑)
解かってて、なぜやらない!て事ですよね?
【答え】
自分を甘いなと反省できたことが素晴らしいですよ。
怒られるとたいていは
「うるさいな」「またかよ」「はいはい、いい加減にしてよ」
などと心の中で思うものです。
それを、自分は甘いと思って反省し、その上みんながしんどいだろうと考えられるなんて、とても素直で素敵。
ただ、『リーダーなんだから』と言われたのは、それだけ期待をかけられているということ。
『そんな器じゃないです』などと卑下しないで、『くそーーー!!二度と言わせるものか』くらいの気持ちになって欲しいですね。
昔から、これを発破をかけるというのですから。
この奮起する気持ちが、その先の成功につながるんですよ。
みんな人目を気にするから、起こられた時点でプライドが傷ついたと言い出して、この奮起がヤケになってしまって、投げ出して逃げてしまうことが最近は多いんです。
是非、次からは「なにくそ!!」と思う気持ちになって、そのパワーを仕事に向けて奮起してください。
きっと成功します。
楽しみにしていますね。
相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第二回
前回のこのコーナーでの 『人から嫌われたくない、好かれたい、という気持ちって、捨てた方がいいですか』 への解答に対して、次のような質問を戴きました。
【質問】
「それを利用してやろうという人」という人は無意識にそれをしてしまうものなのでしょうか?
それとも昔からの習性のようなものなのでしょうか?
相談者の方はこの気持ちを認識していると思いますし、治したいと悩まれています。
逆に利用してやろうという方の心情というのはどうなってしまっているのだろう、治るのでしょうか?
戦後教育の賜物?いや、そうでない方も多数見えますし。ふっと思いました。。。
【答え】
このような場合、私は相談者が直したいと悩んでいるかどうかまでは考えないのです。
それは、相談者本人にしか分からないことで、想像しかできないからです。
私にわかることは、本人が“今、困っている。だから解決したい”という事実だけなんです。
だから、嫌われたくない・好かれたいと思うことを止めれば解決になるから、そのために納得できる理由を書いています。
また、利用してやろうという人も、自分が人を利用していると意識しているなら直るでしょうが、おそらくその人なりに理由をつけているから、得したとは思うでしょうが『自分が悪いことをしている』という認識は無いでしょう。
だって、親に対する子供のほとんどがこれに値していませんか?(笑)
みんな、親に嘘をついて(みんなが持ってる・・・)と言って親の反対するものを買ってもらった経験などあるでしょう。
罪の意識って無かったですよね。私も有りませんでした。でもこのように考えるともう既に子供のときからやっているのに、意識がないだけなんです。
仏教 (仏様のような人に成るための教え) でお釈迦様は
「知っていて悪い事をする人と、知らないで悪い事をする人のどちらがより悪いか?」
という質問に、「それは、知らないで悪い事をする人の方が悪い」
とおっしゃっているそうです。
それは、知っていてする人は直すことができるし反省することも可能だが、知らないでする人は悪い事をしている事が分からないのだから直すこともできないし、また他者を不幸にしていることすら気がつかないでいるから反省もできないというのが理由だそうです。
利用しようとしている人も、嫌われたくないと思う人も、どちらも自分のことだけを考えているという点が同じだということです。
利用しようとしている人が自分のことしか考えていないということは誰にでも容易に分かります。
でも、嫌われたくないという人も、自分が災いやもめ事に巻き込まれたくないという自分の利益のみを考えているということで、自分のことしか考えていないとなるわけです。
それよりも、嫌われたくないから黙っていたことで、周囲とのバランス、自分とのバランス、或いは組織としてのバランスが上手く取れるかどうかを考えたらいかがでしょうか?
他者のことも考えたら、きちんと感情を抜いて、必要なことは言わなきゃと思うでしょう。
そうすれば、こういう悩みは自然と消えてしまうのですね。
鍵山秀三郎先生が「不幸に遭った時は、世の中の不幸が全部私のところへ来るといい。そうしたら世の中に不幸な人がいなくなる」とおっしゃいました。
感動しました、私はこれを書くだけで毎回涙が出ます。
すごいですよ、私はまだこの境地になれないでいます。
人間は人の為に生きると、周囲も人の為に生きるから、みんな助け合いになるのですが、最初にそれを始める人がなかなかいないのです。
だから、せめてこれはみんなが困る事だ、きちんと意見を言わないとダメなんだと思ったら、嫌われても良いやと腹をくくって言う事です。
そうすると、同じように周囲を考える人が寄って来て、利用するような人が寄ってこなくなるのです。
もちろん時間がかかりますが、最終的に安心した居心地のよい環境ができるのです。
やはり幸せは努力でしかつかめないものですし、類は友を呼ぶなんて“ことわざ”もありますから。
本多百代
新設の相談コーナー
武士道精神で『悩みに答える!』
今日、私の携帯に「相談があります」とメールが入りました。その内容は
【質問】人から嫌われたくない、好かれたい、という気持ちって、捨てた方がいいですか? R.W
【答え】
もちろんです。
人から嫌われたくない、好かれたい、という気持ちが強いと自分の気持ちをを殺します。
人に良いことを自分の信念に基づいてすれば、自分の生き方と同じ人が集まって来ます。
好かれよう嫌われまいとすると、わがままでずるい策士で、悪い意味でのカリスマ性の高い人が寄ってきて利用されてしまいます。
詐欺師が詐欺に遭う人に寄ってくるのと同じで、詐欺師は詐欺師に詐欺をしようと寄っては行きませんから、それと同じです。
好かれたいとか嫌われたくないと思う人に、それを利用してやろうという人が寄ってくるということです。
それよりも、まず自分を大切にしましょう。
自分はどうしたいのか? 自分に聞いてみてください。
自分を大切にするということは、NOをはっきりとやんわりとサラリと言えることです。
NOをきつく、怒って言うのは誰にでもできます。
NOをニコニコと明るく言うのは智恵が要ります。
一生懸命相手にとって良い事は何か、また、自分はそれをどう思っているのか?
そこを智恵をだして調和を図るようにしていきましょう。
自分を大事にするということは、やりたいことをやりたいようにやるという事ではありません。
自分を大事にするということは、自分の気持ちににも焦点を当てましょうということです。
本多百代