武士道ワンポイントレッスン

勝者と敗者

2010年7月6日

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武士道ワンポイントレッスン
16回目のテーマは「勝者と敗者」
ウルトラマンや仮面ライダー、遠山の金さん、水戸黄門、暴れん坊将軍など、昔からヒーロー物語を見過ぎてか見続けてきた我々は、勝者が正義で敗者は悪物という固定概念に縛られてはいませんか?
本当に勝者が正義の味方で正しいことをしているのでしょうか?
実際のところ勝者は、ただ喧嘩が強いだけ、腕力が強いだけということもありますよね。
また、ズル賢くて策士だったり…という場合も多々あります。
要は、喧嘩が強くなければ戦争や戦いには勝てないわけで、いくら清く正しくても喧嘩に弱ければ負けてしまいます。
そして、戦争に負けた側の歴史は必ず消されます。
特に美談などは絶対に伝わりません。
たとえ残ったとしても、ずっと後世になってから取り上げられますが、もちろん勝者の様に崇め奉られることはありません。
会津藩もそうですね。
実に誠実で、正しく清く勤勉でした。
戊申戦争で会津藩士たちは自分たちのためにではなく、将軍家のために戦いました。
女性までが男装して戦わなければならないほど劣勢で悲惨な状態だったのです。
男装しなければならなかったのは、女まで使っていると、嘲り笑われないためだったのです。
その時将軍はさっさと大政奉還して生まれ故郷の水戸に帰ってしまっていたのに…。
でも負けてしまったので、なかなか表舞台に立てませんでした。
言い換えれば、時代の変化を見抜く力が足りなかったともいえますが、その場に立ったら口で言うほど簡単ではありません。
これから歴史は敗者のものも取り上げることが大切ではないかと思います。
死刑になったフセイン氏は本当に数々の残虐な行為をしたのでしょうか?
事実なら何故そのようなことをしたのでしょうか? 
もっと正しく取り上げていたら、テロがここまで酷くなはならなかったかもしれません。
というよりも、フセイン氏を死刑にした本当の理由見えてくるかもしれないですね。
でも、本当に残虐だったのかもしれないし、我々には本当のことがわからないというのが真実です。
もちろん、勝者が正しい場合も沢山あるでしょう。
明智光秀が豊臣秀吉に勝って天下を治めていたらどうだったでしょう?
きっと、信長も秀吉ももっと悪党扱いされていたかもしれませんね。
それに、細川ガラシャ夫人も自害せずに済んだことは確かですが、キリシタン王国になっていたかもしれません。
そうしたら、間違いなく植民地になっていたでしょうね。
こうやって想像するだけでも、楽しいものです。
だから歴史がすきになるのです。
年表の丸暗記では嫌いになって当たりまえです。
過去の人たちの生き方を学び、それを手本にしたり、反面教師にしたりすることで人間力が高まります。
だからこそ、大東亜戦争後GHQに国史(日本史)の活学を禁止されたのでしょう。
日本人には世界に誇れる素晴らしい先人が沢山が生まれています。
そういう人たちの生き様を学校教育で教えてくださるようになったら、自殺も減るのですが・・・
なぜ学校教育で徳育と活学を取り入れることを反対するのでしょう?
不思議でなりません。
今の歴史は勝者の歴史です。
だから大東亜戦争(第二次世界大戦)に勝った国が残したの歴史を我々は学んでいます。
敗者である日本人の歴史、それは明治維新の会津の歴史の扱い方と似ていると思います。
白虎隊と特攻隊。
やはり本当に正しい歴史をこれから学びたいですね。
敗者は悪者ではありません。
お金がなくて武器が調達できなかった人であったり、卑怯なことを全くしなかった人だったかもしれません。
われわれ日本人は悪者だから戦争に負けたのではありません。
もう一度、敗者の視点で歴史を掘り起こす作業をしていきたいですね。
岐阜の飛騨高山にも、敗者の歴史が隠されています。
古事記で有名な“稗田阿礼”は“飛騨の阿礼さん”らしく、今も阿礼さんの末裔がいらっしゃるそうです。
この辺をきちんとしていくと、同和問題までが解決されると聞いています。
勝者と敗者、この関係を、善人と悪党という解釈にすることは今日からやめましょうね。

運命

2010年7月5日

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武士道ワンポイントレッスン
15回目のテーマは「運命」
江戸時代は命をどのように考えていたのでしょう。
会津にとても悲しい話が残っていました。
会津藩家老萱野権兵衛の次男である郡長政は、九州・小笠原藩の育徳館に14歳で留学しました。食べ盛りの男子が見知らぬ町で勉学武道に勤しんでいましたが、母親に『食べ物が粗末だから、会津の懐かしい食べ物である干し柿を送って欲しい』という手紙をしたためました。
すると母親から食べ物は送られて来ずに、それを厳しくたしなめた手紙が届きました。
ここは私の憶測ですが、母親は送りたくても食べ物も送料もなかったのではないでしょうか。
母からの手紙で武士の子としての心構えを忘れた事に反省をして、二度と弱音をはかないためにか、大事に懐に入れて持ち歩いていました。
ところが、ある日母からの手紙を不用意にも落としてしまったのです。
運悪く、長正が文武共に成績優秀な事に嫉妬していた地元の同級生にひろわれてしまいました。
いくら返して欲しいと頼んでも返してもらえず、とうとう読まれて張り出されてしまいました。
それでみんなから、嘲られ、笑い者にされました。
これは藩を代表して留学に来ている身として、自藩に恥をかかせたことになったと判断した長政は、申し訳ないと言って16歳の誕生日(明治4年)に自刃するのです。
私が母親だったらどうだっただろうか?
狂うほど後悔したと思う。
後悔はいけない、反省しなさい何て、普段は言っている立場なのに、間違なくあんな手紙を出さなければ良かったと後悔し続けると思うのです。
でも彼の母は、狂いそうな程悲しみながらも、藩に対する面目を潰したのだから潔く責任を果たしたと思ったかもしれません。
公私を分けて考えて、迷惑をかけたことを主に考えたら、そういう気持ちになっていたかもしれません。
いやいや私みたいに後悔組だったかも…?
今になっては知る由もなく分かりませんが、少なくとも私よりずっと芯が強かったろうと思います。
実は、長政の父は戊辰戦争での会津藩の責任を一身に背負って明治2年に切腹していました。
だから、本当は萱野長政だったのに、父の姓を名乗ることが出来ず、母の姓である「郡」を名乗っていたのです。
悪い事もしていないのに罪を背負った夫の切腹から2年後に、また悪いことをなにもしていない息子が切腹したのです。
本当にやるせないとしか言い様のない出来事です。
運命って、自分が決めてきたと解釈すると、生きるのが楽になるそうです。
確かにそうだと思いました。
自己責任だから、何かを恨んだり、妬んだりしなくなりますよね。
自分が決めてきたんだから、どうやって乗り越えられるのか工夫しようと思えます。
長政の母は運命をどの様に思っていたのでしょう。
今は江戸時代に比べたらとても幸せな環境が整っていると思います。
それなのに、何の意味もなく、嫌になったから自殺をしてしまう。
江戸時代の切腹とは意味が違います。
強くなるには、あまりに恵まれすぎている環境では、余計に難しくなるのですね。
人間って、貧しい時や発展していない時の方が、他者のために生きられるんだなぁと思います。
アフリカの話でも言えてます。
アフリカでも、自分の食べるものさえ満足にない少年が、他人の小さい女の子の面倒を見て、その子の為に自分のわずかな食糧を分けてあげる。
そんな優しさを、苦しい最中に施せるのだそうです。
経済的豊かさを得るのは、人間が本来持っている神の心、天使の心と言っても良い思いやりの精神と引き換えなのかもしれません。
人間から工夫がなくなり、想像力と創造力がなくなり、そして、死後の世界を否定したときから、精神は敗退していくような気がします。
死後の世界は、今を生きるための指針になるような気がします。
だから、何かを、誰かを信じるのではなく、自分で考えて決めるべきことなのでしょう。
死後の世界がないと思えば、死んだら無になるから楽になれると思うでしょう。
でも死後の世界が今の世界の延長線上にあると考えたら、死んだら肉体がなくなるだけやりたいことができなくなり、返って辛さがましてしまう、と思ったら頑張ろうと思うでしょう。
だから、人に決めてもらわず自分で決めることだと思います。
そうすれば運命に対して悲観もしなくなり、どんな艱難辛苦にも立ち向かう勇気が生まれるのですから。

安心感

2010年6月25日

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武士道ワンポイントレッスン
14回目のテーマは「安心感」
今の日本という国は安心できますか?
不安だと思う人は、何故不安なのでしょうか?
政治家が色々上手に言葉でゲームをして、公約を守らないからでしょうか?
良く考えてみたら、国民として、国に守ってもらえるという確信が持てないからではないでしょうか?
国民にとって国、従業員にとって会社、子供にとって親、この関係は同じものなのです。
国を強くしたければ、強い国民を育てなければなりません。
会社を大きくしたければ、良い社員を育てなければなりません。
家を立派に立ち行かせるには、立派な人間(子供)に育てなければなりません。
だから、立派な人間に育てば、その人を入れた会社もよくなり、国も強くなります。
松下幸之助さんの「良い物を作るには良い人を作る」といった考え方です。
子供の頃、母親が父親が自分に何かがあったときに必ず助けてくれると思えたら、とても安心できたと思います。
自分が守られていると確信できることが安心感につながっていました。
自分を守ってくれる親の存在は、一言で言うと
『何が起きても動じない大きな山のような存在』
であったはずです。
例えどの様な事があっても、親になったら動じないような心でいられるように、心がけなければなりません。
生身の人間であり、感情の生き物だからこそ難しいことなのですが、演技をしてでも子供の前では不動の姿を見せることが望ましいでしょう。
以心伝心、心は見えないからこそ余計に伝わりやすいものなのかもしれません。
最近は友達親子といって、親しみやすい並列関係の親子が良しとされているケースが多々ありますが、やはり、縦社会で学ぶことの大切さは計り知れぬ大きなものです。
人を敬う、ならぬものはならぬで意に反してでも従わなければならない時もあること、先輩や上司に対する礼儀なども全てが、家庭での縦の人間関係から学んでいきます。
これが機能していないと、親から離れた時や社会に出た時に、知らないが故に失礼な振る舞いをしてしまい、結果的に辛い思いをすることにもなるのです。
友達親子では気軽に話はできても、守られているという安心感は薄くなります。
大きなものにすっぽりと包まれる安堵感、これは縦の関係でしか生まれません。
この安堵感(安心感)を得て育った子ほど、自立心も旺盛で自発性と自主性に富んでいるといえましょう。
確かに親も並列の関係の方が楽です。
否が応でも責任が薄くなります。
日本人が強くて、有色人種の中で唯一植民地にならなかったのは、この縦社会で心を育んだことも関係がないとは言えないと思います。
周囲に安心感を与えるには、周囲から信用を得ていること条件です。
責任を果たさなければ信用は付きません。
想像力の豊かな広い心を持った国民を育てるためにも、縦社会の良さを生かした生活を心がけたらいかがでしょうか。
責任を果たし、ものごとに動じず、心の広い人が安心感を与えるます。
安心感を与えられて育った子も、同じように他の人に安心感を与えるようになるものです。

思い込み

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13回目のテーマは「思い込み」
武士道協会を設立したばかりの頃、当時専務理事でらした元衆議院議員の小野晋也先生と市ヶ谷駅前で街頭演説をしました。
慣れない私はマイクを持たされて演説を始めたところ、近くに立っていた営業マンに
「もっとスピーカーを大きくしなければ聞こえないぞ」
と教えて頂きました。慌ててスピーカーを見たらマックス!!
小野先生の時はものすごく大きな声だったのに・・・改めて自分の声の小ささと通らない声をしていることに愕然・・・。
そんな思い出がふと頭に浮かんできました。
そして、それから2年経ったとき、私は肺炎になってしまいました。
病院に通っていたのに無熱性肺炎を発見されず、日々苦しくなりだんだん声が弱々しく小さくなりました。
その様な状態でタクシーに乗ったら運転手さんに
「お客さん、しっとりとした良い声してますね。朝からキャンキャンやられるとイライラするけど本当に良いですわ」
と誉められてタクシー代をまけてあげると言われました。
なんと複雑な二つの体験でしょう。
研修講師をしている私は声が命。声が出なくなったら仕事ができません。
それなのに、私は体調を崩すと必ず咽喉からやられて、声が出なくなります。
だから体調には細心の注意を払い、自分の身体には敏感であるように注意をしているつもりです。
その声で、最初は一生懸命声を出していたのに打ちのめされ、次は声が出なくて情けないとへこんでいたら誉められて・・・解らないものですね。
この様に、自分で思っている事実と、実際に外に発信されて受け止められている事実とかなり差があるということなのです。
『思い込み』は怖いですね。
人は誰でも思い込みがあります。
でも素直ならば、この思い込みも少しうしろに下げて冷静に見ることができます。
傲慢だったり、頑固だったりすると、この思い込みによって自分自身が痛い目にあったり、他者を傷つけたりすることになります。
正しいと思っても、全てのことは時の流れによって風化したり変化するのが世の常だから、もう一度考え直す柔軟さが欲しいですね。
でも、思い込みも悪いことばかりではなく、思い込んでいたために、恐怖を感じずにやってのけたなどということもあります。
後で聞いて背中から汗がたら~り・・・などという話も良く聞きます。
私の尊敬する先生が蝮(まむし)の出る山を下山した時、村の人に良く蝮の産卵の時期に山を一人で降りて無事だったと驚かれたそうです。
こんなことも大丈夫という思いがあるからこそ出来た業で、初めから真実を知っていたらできなかったことでしょう。
でも、運が良かっただけともいえるので、やはり思い込みは危険が伴います。
素直で自分を振り返る力を育てること、それは許容量を広げること、つまり器が大きくなることです。
武士道を志す人みんなで力を合わせて自己成長しましょう。

見守る

2010年6月24日

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12回目のテーマは「見守る」
陰で見守る、裏で見守る
この言葉を、見守る側と見守られる側で捉え方が違う時が往々にしてあります。
見守る側が見守るという時に起こしやすい過ちは、
『指図をするだけで、責任を取らないでいい立場にいる』 
のに
『陰で見守っている』
と勘違いしている場合です。
自分では陰で助けて、手柄を与えていると思ってしまうのですね。
人は自分で考えて思いついた事をしている時は、不安であっても楽しいものです。
それで失敗して責任を負わされても納得がいきますから、我慢ができます。
しかし、陰で指図され、言うとおりにしないとガンガン言い負かされ、仕方ないから言いなりになったところ失敗してしまった。
この時、陰で見守っているはずの人は、絶対に責任を取らずに、言ったとおりに全てしなかったからだと必ず言います。
これでは、失敗した方は浮かばれません。
 
また追い討ちをかけて困ったことに、見守っているはずの人は、自分の犯している過ちに気づいてないということです。
ガンガン言い負かされという表現を使ったのも、言われる側はこの様に取れているという比喩です。
見守るのと指図するのと勘違いしてごちゃ混ぜ状態になっているのですね。
これは以外と性格的に自分の意見が正しいと思い込んでいる方に多い現象です。
特に現役時代に役職についていらした方は、一度振り返ってみるのも将来を豊かにすることになると思います。
意見を出す人は責任も取る という事を鉄則と心得ること。
そうすれば、陰で意見を出して表に出ないという卑怯な行為は自ずと減ってくると思います。
武士道というと信念が確立されていること、自分の意見を持っていること、信念を曲げないことなどと思っている方が多く感じられます。
確かに必要で素晴らしいことですが、その信念や意見も、今までの生きてきた環境から生まれたものです。
だから、環境が違い、時代が違い、育てた親の考え方が違えば、同じ意見を持っている人の方が少なくて当たり前です。
そのように柔軟に捉えて、相手の意見も尊重する、そして、すり合わせていく行為を忘れないようにすることが良い人間関係を構築していきます。
武士道では、自分の意見と同じくらい相手の意見も尊重する ことが求められています。
さて、話は戻りますが、『陰で見守る』 という行為は、困った時や相談に乗られた時に親身に相手をするということです。
そして、相談に乗り、助け舟で意見を出したのに、それが採用されなかったとしても、それは自分の決定範疇ではないと思い知らぬ振りをしなくてはならないのです。
相談した人は、誰かに困っている事を話して、聞いてもらうだけでオートクラインが起きて、自分なりの案が思いついたりするものなのです。
オートクラインはコーチングでも立派なスキルとされています。
話すことによって自分の中に眠っている考えが呼び起こされて案が思いつくといった現象です。
陰で見守る、つまり、目をかけても手は出さない、これに徹することが出来た人は、子育ても上手です。
子供が夢を現実にするために必要な、想像力と創造力が育つからです。
部下にも同じことが言えます。
指図はマニュアルと同じです。
つまり、見守る側には忍耐が必要だということです。
だから、見守る側も学びをさせられているということなのです。
人生って全て学ぶことに徹しているのかもしれません。

諦めない

2010年6月23日

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11回目のテーマは「諦めない」
諦めないというけど、どうしたら諦めずに挑めるのでしょう?
具体性がないと、どうも第一歩が踏み出せませんよね。
そこで、諦めない心とはどういうものか以下に書き出してみました。
【諦めない心】
①工夫をする
②考える
③夢を抱く (想像する)
④夢を実現させる (創造する)
⑤ブラス思考になる (必ず何とかなると思う)
⑥視点を多く持つ (視点を変える)
⑦自信を持つ (みんなの役に立てると思う)
⑧覚悟を決める (一人でもやり抜こうと思う)
⑨謙虚になる (まだ足りないと思う)
⑩肯定する (否定をしない)
諦めないということは、逃げないという言葉に言い換えられます。
諦めずに食い下がり、後一歩、後一歩と思っているうちに、気が付いたら目標を達成していたということは、よくあることです。
責任をとるということは、最後まで諦めずに工夫をし続けることです。
私が鍵山秀三郎先生に武士道協会の先行きの不安をご相談させていただいたときのことです。
武士道協会の理事で退任する方が出てきたり、会員さんで継続をしてくださらない会員さんが出てきたりで、不安になってしまったのです。
すると鍵山先生が「最後は一人になってもやり抜こうと覚悟をしていますか? 私は掃除の時に一人でもやり抜こうと覚悟を決めました。覚悟ができたら大丈夫ですよ」とおっしゃったのです。 
今までのどの言葉より重く、そして、爽やかな響きを感じました。
だから、私は人間力向上セミナーで参加者が一人だと言われたときも、開催しますと自信を持って言えました。
一人でも参加してくださるなら、私と二人になるではないですか。
一人でもやり抜こうと決心していたら、一人の参加者は素晴らしい味方が現れたということです。
お蔭様で、先週の人間力向上セミナーは私を含めて27名でした。
諦めないで続けてきて良かった・・・!!
本当に、涙が出るほど感動しました。
諦めない、へこたれない、悩まない、不安にならない、悪い方へ考えない・・・
こうしているうちに、必ず幸運の女神様が近づいてくださいます。
ウサギと亀ではないですが、人生何が起こるかわかりません。
最後まで諦めずに挑むことで、たった一度の人生を最良のものにすることができるのですから!!
素敵でしょ。

惻隠の情

2010年6月18日

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10回目のテーマは「惻隠の情」
他者(ひと)の悲しみを自分のこととして受け止め、共に悲しみを分かち合える心。
そして、他者(ひと)の喜びを自分のこととして受け止め、共に喜びを分かち合える心。
文字で読むと簡単そうで、また、自分が幸せな時はとても簡単にできそうなことです。
しかし、自分が幸せではないとき、或いは、望みがなかなか叶わずにいるときなどに、この2つの心を持ち続けることができるでしょうか?
惻隠の情は、いかなる状態のときであっても、持つことに意義があり、そうでなければ惻隠の情があるとは言えないのです。
自分が幸せな時は、他者の不幸をいかにも気の毒に感じて何かをしてあげたいと思うでしょう。
しかし、自分が不幸な時に他者の不幸を知ったとしたら、心の奥底では安心感が広がるはずです。
それが、人間なんです。
そして、自分が不幸な時に、他者の幸福を知ったとしたら、心の奥底では不安と苛立ちが起き、妬みや恨みの感情が沸き起こるはずです。
そう、それが人間なんです。
誰もが間違いなくこの感情を持ってしまいます。
だからこそ、私たちは肉体を持った人間として生を受けて、己の心を大きく広くすることを目的として、高尚になろうと必死に生きているのです。
惻隠の情は、人間にしかない心のあり方です。
でも、人間には難しくて、なかなかこの心境になれずにもがいています。
だから、善良な人か悪人か、できる人かできない人か、を知るには、逆境を共にすると一番わかりやすいと言うわけです。
「善良な人・悪人」と書いて「良い人・悪い人(嫌な人)」と書かなかったのには理由があります。
良い人とは、みんな自分にとって都合の良い人のことを「良い人」と勘違いします。
そして、自分にとって都合の悪い人を「悪い人(嫌な人)」といいます。
悪人でも、自分のして欲しいことをしてくれて、自分を褒め称えてくれれば、良い人になってしまうものなのです。
逆に、自分にとって必要なことを必死に説いてくれている人は、嫌なことを言うからうっとうしい嫌な人になってしまい、悪口や陰口の対象になってしまいます。
最近は、良い人になろう、良い子にならなければ、と思う人が多いように感じます。
でも、良い人になるということは、この様に誰かにとって都合の良い人になろうとしていることであり、決して世の中の役に立つ良い人になろうとしているのではありません。
本当に良い人になりたければ、惻隠の情を身に着けることです。
しかし、自分が望みの叶わない辛いときに、友人の幸せを一緒に喜べる真の優しさを身に着けることは、並大抵の努力や精神力では到達できるものではありません。
だからこそ尊いのです。
もし今、私はできている、と思った方がいらしたら、その方こそ己を知るところから始めなければ、他者の気持ちは全く読み取れないと思います。
人間は己を知ることが一番難しいのです。
まだまだだ・・・と思った方、その方向で進んで良いと思います。
過信せずに、地道に努力することが、必ず生まれてきた目標と目的を果たすに必要なことです。
そして、人間である以上、惻隠の情で人と接することができるようになることは至難の業でしょう。
ほんの一握りの人しか、惻隠の情で他者と接している人はいないでしょう。
でも、そうなろうと努力することはできるし、努力することで近づくことはできます。
それは、きっと大きなうねりとなって、日本という国を良くしていくことでしょう。
大切なことは、幸せである時を基準とせずに、不幸である時を基準として、惻隠の情があるかないかを考えることで正しい判断ができます。
またそうすることで、当たり前がなくなり感謝の気持ちが育ち、より成長します。

普通

2010年6月17日

武士道ワンポイントレッスン
九回目のテーマは「普通」
普通というと、なんとなく良くもなく悪くもなく・・・と思うのではないでしょうか?
でも、字を調べると全く違うことがわかります。
“普” は「あまねく」という意味です。
そして、「あまねく」とは “もれなくすべてに及んでいる” という意味です。
“通” は「精通していること」「全体に行き渡る」「 物事を広く知っている」という意味があります。
“普通” とは、「もれなくすべてに通じている」 ということになるのです。
だから軽く、「うちの子は普通でいいわ」なんて言う方が良くいらっしゃいますが、すごいことをおっしゃっているわけです。
「うちの子は、もれなく総てに通じている位がいいわ」と言っているようなものだからです。
母国語となると言葉を無意識に使うことが多くなります。
また、使う人によって、その単語の意味を違ってとらえていることも多々あります。
「けっこうです」 と言われたとき、これを「いいですよ」と「いりません」のどちらにとりますか?
この単語だけでは推し量ることはできず、発言した人の表情や前後の言葉によって判断しているはずです。
これが日本語なんですね。
感情を読み取らないと意味を取り違えてしまうのです。
「普通でいい」のではなく、「普通だったらいい」と使ったら良いのですが、一般的に「普通だったらいいわ」と使ったら、「どこか足りないの?」とか「そんなに(程度が)悪いの?」などと誤解されそうですね。
ただ、正しい意味をわかった上で、一般的に流通している意味での普通を使うことで、日本語特有の言霊のメリットを得ることができると思います。
そして、普通であることに感謝をして、普通にできない人の助けをしてあげることができたら、きっと文字の持っている本当の意味での普通になれると思います。
みんなで普通になりましょう。

2010年6月16日

武士道ワンポイントレッスン
八回目のテーマは「国」
国とは何か?
国は私たちを守ってくれる親と同じ存在である。
でも、国があって当たり前の環境で生まれてわれわれ日本人は、国に感謝をしたことがあるでしょうか?
政治家の方ですら、日本を悪く言うのが当たり前になっている昨今、パスポートを日本国に申請することを躊躇してほしいと思います。
つまり、親の悪口を言いながら、親にお金をせびっているのと同じだからです。
親孝行をしなさい、ということは悪いことでしょうか?
それなのに、愛国心を持ちなさい、というと「右翼? 怖い!」と言うのは何故なのでしょう?
好きな異性に「愛している」というのは当たり前だと思っているでしょうが、それはほとんどの場合が「愛」ではなく「恋してる」だけでしょう。
愛しているとは、相手のすべてを赦し受け入れて、それでいて相手の幸せを祈ることです。
恋しているとは、自分が相手のどこか一部(顔、スタイル、お金、学歴、欲しい言葉、・・・)に魅かれて、胸がキューンとしていることです。
愛国心とは、国を恋しく思えと言っているのではなく、国が安泰であるように、国が発展するように、国民一人ひとりが考えながら行為行動をするということです。
自分さえよければ良いという判断をしないということなのです。
今まで、あまりにも自分の損得で国を動かしてきた政治家が多くいました。
また「国なんかどうでもいいんだよ、うちの会社さえよくなれば」という経営者や経営陣が多くいました。
そして、一般国民の中では親殺しが起き、子殺しが多発しています。
よって、愛国心が希薄化して当然なのかもしれません。
だからこそ、今、改めて親孝行、愛国心を考え直なければならないと思うのです。
今、国民の90%が日本という国を不安に感じていると答えているそうです。
親を信じられないと言っているのと同じです。
これでは良くなる方がおかしいと思います。
国は親と同じなのだから、われわれ国民一人ひとりが自分の生き方を考え直さなければ国は良くなりません。
不安だと思うなら、自分がどうすればいいのかを一人一人が考えましょう。
そうすれば、自然と子供を大切にする気持ちが芽生え、恐ろしい事件も当然減ると思います。
日本という国のありがたさは、外国に出たときにわかります。
親孝行したい時に親はなしというように、国が大事だと思った時には・・・とならないように、今から意識を高めていきましょう。

育てる・教育

2010年6月14日

武士道ワンポイントレッスン
七回目のテーマは「育てる・教育」
人を育てるっていうことは、薄いティッシュペーパーを一枚一枚丹念に重ねて厚みをもたせて行くような作業と同じだと塩川先生が以前理事会で仰った事がありました。
頭の中では理解していても、イザ実践となると一枚一枚重ねている内に、
『こんなにやっているのに!! 何で分かってくれないの??』
などと思うことも多々あるでしょうね。
でも、思った瞬間に、今まで重ねたティッシュペーパーが全部吹き飛んで、なくなってしまうんです。
先日のニュースでも、母親がオムツをしている1歳の赤ちゃんに熱湯をかけて、皮膚がめくれるほどの火傷を負わせたとありました。
間違えて熱湯のシャワーをかけてしまったと言っているとのことですけど、それなら母親の手にはかからなかったの?
辻褄が泡なすぎるし、不注意なら程が有ると思います。
ティッシュペーパーを箱ごと積み上げるような家庭教育を受けてきた母親なのかしら?
そうなると、祖父母が悪いわけで、その祖父母も曾祖父母の育て方が悪かったということになって・・・
切りがないじゃないですか。
切りが無いと思ったら、気づいた人から始めるという運命を担ってきたんだ、きっとご褒美は多きいと思って、“選ばれし人” となったことに自信を持ちましょう。
人を育てるという “人” の中には自分も入っています。
親の育て方が悪いと思った人が、18歳になっていたら、
気付いた人が始めなければならないから、まず自分を育てることから始めないとならないというわけです。
何でも人のせいにしている時は楽なんです。
でも楽をしていたら良くならないわけで、何でも苦労や辛さの中に学びがあり、それを習得すると成長という成果を戴けるんです。
成長すると、今まで苦しかった事が苦しく感じなくなる。
それは、小さい時に掛け算九九を覚えるのに苦労して、八の段なんて何でやらなきゃいけないんだろう・・・なんてボヤキながら勉強したことを思い出せば分かります。
掛け算を覚えておいて良かったですよね、今考えると。
当時は、嫌だい嫌だと思ったテストも、今考えると、そのお蔭で恥をかかずに済んでいるということです。
それは、勉強だけでなく生活習慣など総てに言えることなんです。
だから、育てるということはは、自分を育てる事も入っていて、とっても大事な事なんです。
自分が育てば、間違いなく周囲が育ちます。
先ずは薄紙を一枚一枚丹念に積み重ねるように、生き方を考えて、教育を考えていきませんか。
きっと世界が良くなると思います。
・人に迷惑をかけない
・人の嫌がることはしない
・自分が我慢すればよい事なら喜んで受けようと思う
・人の嫌がる仕事は自分が引き受けよう
など、最近は死語になってしまった言葉を思い出して、実践していきましょう。
教育者にとって、
①先ず自分が変わること
②気長に構えて怒らない
③感情的にならない
④必要な事を嫌われると思っても伝えていく
⑤大好きといいながら注意をしていく
⑥教えている人の幸せをいつも考えている
この心構えが必要ですね。

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