『私も一言物申す』 世の中に一言!! 一言私にも言わせて(^。^)
第三回目のテーマは「訴訟」
最近はアメリカナイズして簡単に訴訟をする人が増えた様に思います。
離婚問題ですら、当人同士が話し合いもしないうちに訴える夫婦も出てきました。
自力で考えて、譲歩しあって、和を保とうという考えがなくなって来たように思います。
簡単に訴訟が出来るようになると、不思議と人間に注意力や謙虚さが欠乏してきます。
そして、何かが起きるとすぐ人のせいにするようになります。
だから益々揉め事が増えてしまうのです。
最近、学校で子供同士の喧嘩で鼻血を出した子の親が、喧嘩相手の家を訴えたとか。
これでは子供に調和したり協調したりする力が育たなくなり、結果として大人になって自分の子供が人間関係が上手くいかずに悩み苦しむ結果を生むことに気づいていないのでしょう。
北海道のお寺で住職さんの若松お上人様から説法を拝聴しました。
公園の滑り台で遊んでいた子供が、滑り台の頂上から滑る時に坂にかかっていた鉄のアーチに頭をぶつけて怪我をしてしまったそうです。
その子の親はすぐに行政を訴えました。
色々取調べがあり、設計者にも事情聴取がありました。
その設計者は「わざと怪我をするようになっています」と言ったのだそうです。
つまり、注意をしないと痛い目に遭うよということを小さな怪我で小さい時から教えていくというのです。
私はこの話をから聞いて成るほどと思いました。
今育児中の若い両親に、絶対的に必要な知識であり、子供には必要な体験だと思いました。
この訴訟の結果は残念ながら知りませんが、裁判官が人としての生き方を理解している方だったらいいなと思うばかりです。
訴訟をするようになると理論ばかりが達者になり、善悪よりも言い負かした者が正しいとなることで、ならぬものはならぬのですという当たり前の感覚に障害が生じます。
戦争というのは、正しい国が勝つのではありません。
力の強い国が勝つのです。パワーポリティックス、つまり、軍事力にものをいわせた権力政治がまかり通っています。
喧嘩も正しい善い人が勝つのではなく、力の強い人が勝つのです。
そして、訴訟はいかに自分を正当化するかが勝負なのです。
つまり、反省などしていたら負けてしまうのです。
生きていく上で最も大切な『反省』が、勝つためには邪魔な存在になってしまうのです。
『反省』をするから、怒りも静まり、同じ過ちをしないで済むようになります。
結果として、自己主張が盛んになり、相手への配慮がなくなりますから、気付きや真意を汲み取る力が育たなってしまうのです。
最近は消費者が怪我をしたら、メーカーが訴えられて責任を問われることになるから、説明書にこんな事まで書かないといけないの? と呆れるようなことまで記載されているのを度々見かけ ます。
これではマニュアルがないと生きられない人間が育ってしまうわ・・・と懸念し、心配になってしまいます。
人間の目は自分以外を見るためについています。
だからこそ、心の目は自分の内面を見つめるようになっているのです。
そうしなければ上手く心身のバランスが取れないのです。
それなのに、何でもかんでも訴訟にもっていくと、自分を見つめる目が育たなくなり、他者を批判することが当たり前になってしまいます。
そうすると、被害者意識が高くなり、精神的にバランスが崩れて、かえって心の病になりやすいように思います。
訴訟も必要な時があるでしょう。
闇雲に訴訟反対を唱えているのではありません。
ただ、そのくらい自分達で話し合って解決したら? と思う喧嘩まで訴えるのはどうかと思います。
健全な楽しく幸せな毎日を送りたければ、訴訟は控え目にした方が良いのではないでしょうか。
相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第二回
前回のこのコーナーでの 『人から嫌われたくない、好かれたい、という気持ちって、捨てた方がいいですか』 への解答に対して、次のような質問を戴きました。
【質問】
「それを利用してやろうという人」という人は無意識にそれをしてしまうものなのでしょうか?
それとも昔からの習性のようなものなのでしょうか?
相談者の方はこの気持ちを認識していると思いますし、治したいと悩まれています。
逆に利用してやろうという方の心情というのはどうなってしまっているのだろう、治るのでしょうか?
戦後教育の賜物?いや、そうでない方も多数見えますし。ふっと思いました。。。
【答え】
このような場合、私は相談者が直したいと悩んでいるかどうかまでは考えないのです。
それは、相談者本人にしか分からないことで、想像しかできないからです。
私にわかることは、本人が“今、困っている。だから解決したい”という事実だけなんです。
だから、嫌われたくない・好かれたいと思うことを止めれば解決になるから、そのために納得できる理由を書いています。
また、利用してやろうという人も、自分が人を利用していると意識しているなら直るでしょうが、おそらくその人なりに理由をつけているから、得したとは思うでしょうが『自分が悪いことをしている』という認識は無いでしょう。
だって、親に対する子供のほとんどがこれに値していませんか?(笑)
みんな、親に嘘をついて(みんなが持ってる・・・)と言って親の反対するものを買ってもらった経験などあるでしょう。
罪の意識って無かったですよね。私も有りませんでした。でもこのように考えるともう既に子供のときからやっているのに、意識がないだけなんです。
仏教 (仏様のような人に成るための教え) でお釈迦様は
「知っていて悪い事をする人と、知らないで悪い事をする人のどちらがより悪いか?」
という質問に、「それは、知らないで悪い事をする人の方が悪い」
とおっしゃっているそうです。
それは、知っていてする人は直すことができるし反省することも可能だが、知らないでする人は悪い事をしている事が分からないのだから直すこともできないし、また他者を不幸にしていることすら気がつかないでいるから反省もできないというのが理由だそうです。
利用しようとしている人も、嫌われたくないと思う人も、どちらも自分のことだけを考えているという点が同じだということです。
利用しようとしている人が自分のことしか考えていないということは誰にでも容易に分かります。
でも、嫌われたくないという人も、自分が災いやもめ事に巻き込まれたくないという自分の利益のみを考えているということで、自分のことしか考えていないとなるわけです。
それよりも、嫌われたくないから黙っていたことで、周囲とのバランス、自分とのバランス、或いは組織としてのバランスが上手く取れるかどうかを考えたらいかがでしょうか?
他者のことも考えたら、きちんと感情を抜いて、必要なことは言わなきゃと思うでしょう。
そうすれば、こういう悩みは自然と消えてしまうのですね。
鍵山秀三郎先生が「不幸に遭った時は、世の中の不幸が全部私のところへ来るといい。そうしたら世の中に不幸な人がいなくなる」とおっしゃいました。
感動しました、私はこれを書くだけで毎回涙が出ます。
すごいですよ、私はまだこの境地になれないでいます。
人間は人の為に生きると、周囲も人の為に生きるから、みんな助け合いになるのですが、最初にそれを始める人がなかなかいないのです。
だから、せめてこれはみんなが困る事だ、きちんと意見を言わないとダメなんだと思ったら、嫌われても良いやと腹をくくって言う事です。
そうすると、同じように周囲を考える人が寄って来て、利用するような人が寄ってこなくなるのです。
もちろん時間がかかりますが、最終的に安心した居心地のよい環境ができるのです。
やはり幸せは努力でしかつかめないものですし、類は友を呼ぶなんて“ことわざ”もありますから。
本多百代
6月3日の日記
ちょっと前までは、子供は泣いて当たり前、騒いで当たり前とみんな分かっていた。
自分の歩んできた道と言っていたように思う。
年寄りを見たら、これから歩む道と思うと優しくできると親に教えられてきたでしょう。
でも、最近は子供が泣くと、それが朝9時半過ぎていても「うるさい、眠れない」と文句を言う人が出てきた。
しかも、「静かにしてくれませんか?」ではなく「てめぇ!!うるせぇんだよ。寝られねぇじゃねぇか」と始まる。
挙句の果てに「ギャーギャー言わせんなら山奥の一軒家に住めよ」ときた。
これって逆ですよね。
「静かな所にいたいなら、山奥の一軒家に住むしかない」ではないでしょうか?
都心の住んでいて、物音のしない静かな所なんて、どうなんだろうか・・・。
この話を若いママから聞いて、助け合いって何を言うのだろうか?と考えました。
ボランティアや募金ではなく、こういうところで我慢してくれるのが何よりの助け合いではないでしょうか?
こういうような人に限って、ちゃんと挨拶ができない。
「こんにちは」と言っても無言でちょっとうなづくだけ。
これじゃぁ心が通わないですね。
人の気持ちを大切にする日本の文化。
ぜひ武士道を蘇らせたいので、皆さんお力を貸してください。
2010年6月3日 11:01 PM | 日記 |
6月2日 日記
2年ぶりに北海道に行ってました。
ホテルの空調が冷房になっていて、エアコンを切っても寒い!!
やはり夜はまだ暖房欲しかったです。
昼間は半そでで汗を流していたのに、本土との違いを感じました。
北海道は海の幸も美味しかったし、じゃがいも料理も抜群!!そして、小樽のびっくりシュークリーム、子供の顔くらいありました。
札幌の狸小路にある“卵かけご飯”のお店、美味しい秘訣は卵をシェイクして空気を出しているからだそうです。
こんな美味しい卵かけご飯を食べたのは初めてです。お茶碗1杯・味噌汁・香の物で250円、安い・・・。
でも結局どんぶりいっぱい食べられてしまうから不思議です。どんぶりは400円だったかな?
私の生活圏である東京や名古屋よりも北海道は時の流れが緩やかに感じました。
異国情緒あふれる中に、日本が調和して生きている、そんな感じがしました。
今回は日蓮上人の武士道を勉強してきました。
うぅ~んやはり改革をするには、命を惜しんでいてはできないんだ・・・と思いました。
私はどうかしら? まだまだ命を惜しむ自分を発見。ちょっとショック・・・
日本を良くしたいからみんなで手を取り合いましょう、と言ってもそれぞれのやり方でやっていて、そんな簡単に徒党を組むことはないですよね。
それと同じで、仏教もキリスト教も宗派が違うとなかなか仲良くできないものなんですね。
2010年6月2日 11:56 PM | 日記 |
国際マンダラ協会会長
アメリカ大日寺住職
武士道協会理事 田中成明
2010年6月1日 11:38 AM | 日記,武士道協会DVDより |