8月27日 日記
久しぶりに10代の時からの仲間に会ってきました。
その仲間のお兄様がバイクの事故で即死したそうです。
ずっと会っていない人なのに、ショックでした。
若い時の仲間だから、家族構成まですべてを知っているので、お母様の心中を察すると余りあることで、胸が苦しくなりました。
本当に人の命とは何と儚いものかと思わずにいられれませんでした。
会社を設立して、大きくしている最中だったそうです。
奥様(といっても私もよく知っていた方です)の居住地の近くに改めてお墓を買って入れたとのことで、長男だけど親(父親が既に他界)のお墓に入れなかったそうです。
理由は、死んでも近くにいてほしいからということでした。
お母様は息子の他界と自分の家のお墓に息子を入れてもらえなかったことの両方でショックだったようです。
それぞれの視点で考えると、どちらの気持ちもよくわかります。
でも、これで良かったのかしら? と他人事ながら考えさせられた事柄でした。
家という考えから、個という考え方に変化してきている証ではないかと思ったからです。
日本を支えてきた縦社会の絆が薄れつつあることを感じました。
やはり、息子、ましてや養子に出したわけでもない長男が、自分のお墓に入ってくれないことを生前に知る、一生懸命生んで育てた母親の気持ち。
子供が親より先に他界する親不孝(致し方ないことだけど一番の親不孝ですよね)に重なったことに、私までが重く感じてしましました。
また夫に突然先立たれた奥様の気持ちもとてもよくわかるのです。
でも、家族単位で生きてきた日本の風土があることも忘れてはならないと思いました。
たった65年でここまで変われるものか・・・とマッカーサー元帥の取った策の先見性にただ感服しています。
でもこれでは、我々の子供の代まで日本が持たないかもしれません。
世の中のあり方自体を考え直し、建て直さないと大変なことになると思った出来事でした。
2010年8月28日 11:45 PM | 日記 |
楽しく、幸せに、毎日を送れたらどんなにいいだろうとだれもが思うはずです。
しかし、逆境は誰にでも不意打ちで訪れます。
そんな時、冷静に、苦しまずに、解決策を見つける能力を身につけられたら、
どんなに楽で、自殺者などいなくなるだろう・・・と思うはずです。
“武士道の精神”が身についていれば、それは難なく可能なのです。
武士道協会主催 人間力向上セミナーは、現在起きている問題を考え
あるべき姿を話し合い、そして、提言していきます。
2010年9月5日(日)10時から3時間程度
2010年9月26日(日)10時から3時間程度
場所 PHP総合研究所東京 (半蔵門線半蔵門駅直結真上)
料金 会員無料 非会員一人1,000円
対象 18歳以上
講師 本多 百代
お申込みは武士道協会ホームページの
お問い合わせフォームからの入力↓
http://www.bushido.or.jp/contact.html
あるいは同フォームをプリントし、必要事項を記入した用紙をFAXでお願いします。
FAX: 075(681)3565
お問い合わせ: (090)681-5514
e‐mail: info@bushido.or.jp
担当 西尾 晴夫
人間力向上セミナーのチラシは下のアドレスから↓
https://sites.google.com/site/sinboas/ningenryoku_t100905
2010年8月26日 04:18 PM | NPO法人 武士道協会,日記 |
いつもこのブログをご覧頂き、ありがとうございます。当ブログは、どの記事に対しましても、コメントが頂戴できる形になっておりますが、より一層皆様との交流をはかるべく、新コーナーを作りました。
特定の記事とは関係なくお書きになりたい場合は、本コーナーのコメントとしてお書き下さい。その場合はカギ括弧でタイトルをつけて頂ければ最高です。
(タイトル例:『私の武士道』)
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コメントこそが、本多百代のエネルギー源です。皆様のお声を頂戴できれば、幸いでございます。よろしく、お願いいたします。 (管理者敬白)
武士道ワンポイントレッスン
21回目のテーマは「はかなさ」と「せつなさ」
人間は「はかなさを知る」ことが、無駄な焦りや競争心を起こさずに済むように思います。
「はかなさ」「せつなさ」とは、どんなに努力をしてもいかんともしがたいことがある事を知ることではないでしょうか。
生老病死がまさにそれです。
他には、愛する人から愛されない、背が高くなるように願っても遺伝でどうしようもない
このように、人生にはどうしようもないことがたくさんあるということなのです。
しかし、最も適した使い方は、「辛いことが多くて一生懸命乗り越えて生きているけど、必ず死んでしまったら何もあの世にはもっていけない」
と思った時この気持ちになるはずです。
「あの人が困っているから助けてあげたいのに、その力がない」という時でしょう。
特に我が子が病気で苦しんでいるのを見ている親や祖父母は、この気持ちで一杯になるはずです。
はかなさを知るとは、いくら努力して完成させても流れの中で生きている我々には、それをとどめ置く力がない、それでも努力を続ける必要がある事を理解することだと思います。
そうすれば、先を考えたら何もしたくなくなってしまったという事はなくなるはずです。
切なさを知るとは身を切られるような思いであるのに、何もすることができない、ただ祈るしかできず、悲しみを堪えなければならない。
己のふがいなさを責めたくなるような気持ちを味わい耐えることです。
諦めの境地になる人、自暴自棄になる人、凛として堪え出来る事をして気持ちの整理をする人、様々な対応の仕方があります。
どんなに辛くても、切なくても、努力をし続けていかなければならない、そういう宿命の元に命を授かっているのが我々人間なのです。
動物はここまで考えられないはずですし、はかなさを知らずに、目の前のことにのみに気持ち動くようです。
はかなさと切なさを感じたり知ったりできるということは、人間である証であり、考える力があるからです。
はかなさを知って、開き直ってしまい「どうせ死ぬんだから、生きている間に好きな事をしておかなきゃ損だ」と考えたとします。
きっと、遊び三昧でしょう。
しかし、「一度しかない人生を、悔いを残さないように、後に残る子孫が恥ずかしい思いをしないように生きよう」と思ったとします。
きっと、世のため人のために良い事を一生懸命考えて行動に移していくことでしょう。
どちらが得か? 正直申し上げますと、死んで見なければ解らないでしょう。
でも、死後の世界があったとしたら、後者の生き方をした方が後悔しないでしょう。
また、死後の世界がなかったら、良いも悪いも解らなくなってしまうのですから、どっちも同じではないですか。
そうなら、子々孫々末裔まで誇れる人物でいた方が、生きている人の中で生き続けるイメージは良くなります。
一点のみで判断せず、多角面での判断をすることが、楽に生きる術に思います。
2010年8月19日 03:43 AM | 日記,武士道ワンポイントレッスン |
8月18日の日記
私がいる部屋の窓から、いつも天満社の杜が見えています。
廊下側の窓からは教会の十字架が見えています。
神様に囲まれた凄い環境です。
今まであまり気になっていなかったのですが、今日は猛暑の中、どうしても天満社にいきたくなり、急遽参拝に出かけてきました。
急な長い階段を登り、途中の広場のようなところに出てから、もう一度階段を登るとお社に着きます。
階段を登る時は、わき目もふらず、ただ足元だけを見て、息を大きく吸いながら登りつめました。
そうでないと苦しくなってしまうほど、運動不足状態だからです。
木々で囲まれていて、景色が見渡せるというわけではありません。
神社の下には川が流れ、それに平行して名鉄本線が走っています。
お参りを済ませ、長い階段を降り始めて少ししたら、足がガクッとしました。
うっそぉーーー!!
つっかけサンダルを履いていったのですが、ベルトの脇がバキッとはがれてしまっていました。
鼻緒が切れたのと同じで何か悪い知らせ???
と思うと同時に「どうしよう!!歩けない」
どうにもこうにも、びっこを引くことすらできません。
はだしで歩くか、片足ケンケンしてかえるしか方法がない!!
でも帰りは緩やかな坂道を10分ほど登らなければならないのです。
この炎天下に裸足ではアスファルトの路面が熱くて歩けないし、片足ケンケンは心臓が破裂しそう・・・
しばし呆然としてから、安全ピンなどこの袋に入っているわけないわ・・・と思いながらも小さな布の手提げの中を見ました。
お財布とタオルハンカチと携帯しかない・・・・役に立たないものばかり。
出てくるときに、お賽銭のためにお財布と汗を拭くために小さいフリフリのついたハンカチにしようと思った時、暑くて汗をかきそうだから大きい方にしようと思って大きめのハンドタオルにしたのです。
それが功を奏しました。
これだ!! タオルハンカチを三角に折って、サンダルの底から足の甲までを一緒に結びました。
大き目のハンドタオルにして良かった。
歩けるではないですか!! やったぁ~!!
安心して嬉しくなりました。
その瞬間、鼻緒が切れるのって不吉な予感? と思い出しました。
心配になって父に電話をして「元気?大丈夫?」と聞いて、ここは大丈夫。
それから、ゆっくりゆっくり帰りました。
無事到着してからサンダルとハンカチを処分してから、鼻緒が切れた事はどういうことか調べました。
そうしたら、昔、死人を埋葬する時に、お墓の土を踏んだ草履は死の穢れがつくと思われていたそうです。
そこで、お墓の入り口で脱ぎ捨てて帰る慣わしだったとのことです。
そのとき、その草履を死霊さんや妖怪がはいてついて来れないように鼻緒を切って捨ててきたそうです。
だから、突然鼻緒が切れるのは不吉な知らせと思われたようです。
だから、厄落としになると書いてありました。
なんかホッとしました。
そうか、工夫をすれば難を逃れられるということだったんだ、と妙に納得して気分がよくなりました。
天満社の神様、ありがとうございました。
お蔭様です。
2010年8月18日 11:37 PM | 日記 |
武士道ワンポイントレッスン
20回目のテーマは「仕事と遊び」
仕事をするということは、先ずは誰もが自分の生活を支えるためにしています。
言い換えると「お金を稼ぐため」に働いているということです。
しかし、生きていくために必要なもの、例えば、食べ物、着る物、寝具、文具、家電など生活をする上で最低限必要なものを買うために働いていることも確かです。また、少しゆとりが出てくると、趣味や娯楽のために使うお金、車や海外旅行、ブランド品など欲しい物を買いたいと思います。ただ単に、この様なものを買い、貯金をして、目標は結婚する事、なとど言っていたら、長い人生を考えた場合、いかがなものなのでしょうか?
結婚が悪いといっているのではありません。
結婚に夢をもって、結婚したらどうしたいのか? という目標を持つことが望ましいと申し上げているのです。
仕事をする目的が生活費のためであり、最終目標が結婚だったとしたら、結婚した後は辛さしか残っていない・・・となってしまうのではありませんか?
せっかく生まれたこの一生を、後悔しないで済む様に思いっきり遊び、それを思いっきり楽しむ。
この様な生き方をしたら苦しい事が起きても乗り越える力が湧いてきます。
それを、ただお金を稼ぐためだけに働いていたら、殺伐とした精神状態になり、心の潤いがなくなってしまうのも道理です。
仕事は苦しいものという考え方は西洋の考え方です。
だから、西洋ではリタイア(定年)を迎えると「おめでとう」と言います。
日本でそんなことを言ったら落ち込んでしまいます。
日本では「まだまだ、あなたの力が必要なのに残念です」と言うと喜んでいただけます。
それでは、仕事とはどの様なものなのでしょうか。
一言で言うと仕事とは「遊びの一つ」です。仕事も遊びなのです。
サーフィンが趣味で仕事の合間に遊びに行く人がいますが、プロのサーファーやサーフィンの講師はサーフィンが仕事です。
映画を観に行く人はたくさんいます。
平素の疲れを癒すためだったり、ストレス発散だったり理由は色々ですが、映画評論家は映画を観ることが仕事です。
ヨガも、ピアノやギターも、趣味の人もいれば仕事の人もいます。
つまり、仕事と遊びの境目は「誰よりも上手になるくらい努力したか、適当にしたか」なのです。
今皆さんは仕事をしています。そ
れは、他の誰よりも一生懸命努力したことが仕事になっているはずです。
そんな努力をしてこなかった・・・とおっしゃる方は、人生も何となく過ごしてきてしまったはずです。
資格のない事務員だから命がけでやるほどではないと思う人、それは間違いです。
どんな雑用でも一生懸命取り組めば、生き方も評判も変わってきます。
事務の仕事が雑用ばかりだったら、誰よりも上手にコピーを撮ったり、どんな美味しい喫茶店にも引けを取らないくらい上手にお茶を入れたりすれば、それがまた新たな仕事になります。
この様に、仕事とは誰よりもその事について努力した結果なのです。
だから、遊びの延長線上にあると思ってよいわけです。
それならば、今与えられた事を、誰よりも一生懸命に、誰よりも真剣に、誰よりも工夫したら、今後どの様な結果があなたを待ち受けているでしょうか?
想像してみてください。
楽しくて仕方なくなるはずです。
努力は中途半端にしていると苦痛になります。
真剣にならずにいい加減にしていると嫌気がさしてきます。
工夫もしないでただ毎日同じ事を繰返していたら飽きがきてつまらなくなります。
仕事とは、当たり前のことを誰よりも一生懸命取り組み、夢中になって努力をし、真剣に工夫をすれば、何よりも楽しい遊びなのです。
2010年8月16日 11:27 PM | 日記,武士道ワンポイントレッスン |
相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第7回
《質問》
私の身近な人で、潔癖な嫌中韓の方がいます。
まだ続く韓流ブームや菅談話にも反応しています。
気持ちは分かるので怒りたくなるのは分かりますが…
怒る事に意味はあるのでしょうか?
匿名希望
【お答え】
この類の内容では、村山元総理を思い出しますね。
隠れてやらないで、正々堂々とやって!
とおっしゃっりたい気持ちは良く解ります。
また保守派政治家の方でも、この様なことに関する件で訴訟問題にまで発展している方もいらっしゃいます。
確かに、保守派政治家の方は正しいことをおっしゃっていますが、やり方が過激に感じることもあり、反対派に対する説得力が不足しているように思います。
ここが『気持ちはわかるけど……意味あるの?』と感じてしまうところではないでしょうか。
私も大東亜戦争や竹島問題、尖閣諸島問題に対する中国や韓国のやり方には全く賛成出来ませんし、日本の対応にも納得いきません。
この65年間に日本のお陰で良くなった所は公表せず感謝せず、でも66年以上前のしかも悪いところのみを挙げてやり込める。
竹島や尖閣諸島も無法な乗っ取り行為だと感じていることも確かです。
でも、私は中国人は大好きですし、親友と思える友人が二人もいます。
また中国漢方では本当に助かっています。
韓国人も同じく嫌いとは思ったことがなく、以前知らずに仲の良くなった友だちが韓国人で良い人でしたし、朝鮮人参やトウモロコシ茶は養生に役立っています。
もちろん、中国料理も韓国料理も大好きです。
だから反嫌中韓でも、賛嫌中韓でもありません。
“嫌”と言っている間は相手と同じ土俵で争っているだけですから、五十歩百歩だと思っています。
また自分を否定する相手の事を良く思えるわけがありませんから、決別するだけです。
そうなればいつまでも闘争が続いてしまいます。
もっと高い位置に自分がいくように努力をしないと、相手の考えを改善させられません。
高い位置とは、地球の平和と人類全ての幸せを考えて判断をする状態を指しています。
決してお金や権力や地位を指していません。
己の意に反することも否定せず認めて、且つ自分の意見を持ち続け、バランスをとりながら相手の考えを正していく忍耐力と持久力がないと、自分の思いは遂げられないものです。
これが“人の器”というもので、許容量とも言います。
つまり“寛容さ”があるから、指示を得られるのです。
寛容さがないと、各々が自分の都合を必死に主張しあいます。
結局、闘うしかなくなります。
初めは言い争い程度が、激昂して腕力に頼ることになり、最後には武力でケリをつけるようになってしまいます。
それが戦争です。
又手放しで言いなりになっていては植民地にされてしまいます。
笑い事では済まされません。
だからこそ、核爆弾を全世界の国々が持とうとするのです。
私は原子力大賛成ですが、原子爆弾(核爆弾)は大反対です。
今の日本は核爆弾だけでなく原子力エネルギーまで反対しています。
爆弾とエネルギーの区別がついていない発言が目につきます。
また、憲法9条も平和を守る良い法律でしょうが、日本だけが守ろうとしても役には立ちません。
憲法9条は日本国内ではなく、世界の憲法にするよう活動をすべきであると思います。
テポドンを日本上空を飛ばすような不届きな国の憲法でなければ意味がないのです。
日本の平和ボケと言われる所以です。
日本国内では、もっと愛国心を育む教育を立憲する活動をして頂きたいと思います。
でも私も今回の菅総理のやり方はよくなかったと思います。
菅総理は元々が社会運動家だったとお伺いしていますから、想像の内ではないですか。
でもそういう民主党を与党に選んだのは日本国民です。
日本を良くするために投票した人が何人いるでしょうか?
信念なく自分の生活を良くする為に投票をしているから、実態のない甘い言葉についつい魅せられてしまうのです。
個々人の幸せも大切ですが、それを中心に考えていれば、まとまりがなく誘惑に惑わされやすくなります。
今の政治に不服ならば、今後は判断を間違えない国民にするために、どうしたら良いかを考えるのが、正しいことをする人間のやることだと思います。
良い政治家がいないと嘆いているなら、自分が政治家になればいいですし、良いと思う人を推挙すればいいわけです。
それもいないなら、教育を徹底していけばいいわけです。
何もしないで文句を言っていては民主国家は上手く立ち行きません。
私はその対策は、武士道を世界に広めることだと確信しています。
だから、時間がかかっても焦ったり苛々したりしません。
やることが見えていますから、対策を考えるだけですので、夢があります。
この世界を真から平和で幸せにしたいし、いつまでも青く美しい地球であってほしいのです。
目には目をで対応するような低次元で破壊的では、相手と同レベルでしかありません。
腹を立てたら冷静さを欠きますから、失敗しやすくなります。
正しいことを言っているのなら、なおのこと是正の仕方を冷静に多角面からの視野を持って考えないといけないと思います。
改革といっても、人が交代して金と権力と地位が譲渡されただけでは世の中は決して良くなりません。
世の中を良くしたいなら、怒りなどのバランスを欠く思いは捨てて冷静に無我無私の境地にならなければなりません。
山岡鉄舟のようにお金も権力も命も名誉も要らないとならなければなりません。
西郷隆盛のように、敵の立場も認めて、大局で判断をする力を持たなければなりません。
そうでなければ、改革をなど容易に成し遂げられるものではないのです。
それには人の心を育む“徳育教育”と偉人の生き方を学ぶ“活学”が必要不可欠です。
学校教育に道徳と活学を中心とした日本史(国史)をとりもどさなければなりません。
世界史が必修科目で日本史が選択科目では話になりません。
西欧のトップに認められるには、相手国の歴史や文化よりも自国の歴史と文化を知っている事が大切なのです
サッチャー氏がイギリスを再興させたのも、母国を誇りと思えるような教育を施したからです。
今の政府官僚が8月15日に靖国神社へ参拝をしないでいる日本人の姿は、父親が自分の子供を守って人を殺めたら、我が子からお墓参りを拒否されたのと同じだと思います。
我が子を守るために人を殺めた父親が死刑になった時、その子供本人やその家族や親戚が
『お父さんは人殺しで犯罪者だから墓参りには行くのをやめよう。
私を守ってくれた父親よりも、喧嘩相手の遺族の言うことの方が大事だよ。
先祖の墓に父は入れてはいけないと喧嘩相手の遺族達が言っているのに、私たち家族は父を先祖の墓に入れてしまったから、これ以上もめると嫌だし悪く思われると困るから、みんんなで命日にもお盆にも墓参りに行くのは止めておこう』
などと信じられないことを言っているのと同じではないでしょうか。
やはり、もう一度考え直さなければ、日本に明るい将来はないと言えます。
それには、独立している他国の政治に、外国人が口を挟んだり圧迫することが非常識なことなのだということを、誤解している人たちに理解し納得てもらえるようにするにはどうしたらよいかを考える必要があります。
それには誤解している人たちに“嫌”などといっていてはいつまでたっても平行線ですし、その“嫌”を付けて呼んでいる人たちこそが、幸せになってくれなければ、理解などしてくれるわけがないのです。
だから、地球のみんなが幸せであるように、誰もが健康であるように、全員の大難が小難に、小難が無難になりますようにと念(おも)うことが必要なのではないでしょうか。
その上で対策を考えなければ答が見つからないと思います。
だからこそ、感情的になっていたり、憎しみや怒りに包まれていたら、対策が練れないし案も浮かばなくなってしまいます。
怒る必要があるかないか?
これで答えは出たと思います。
『私も一言物申す』 世の中に一言!! 一言私にも言わせて(^。^)
第10回目のテーマは「洗脳と信念」
実は洗脳されているのは、今生きている我々です。
日本軍の兵士たちではありません。
新興宗教団体だけではありません。
宗教にのめりこむと怖い・・・これは誰で思う事でしょう。
新興宗教を信仰している人からはお叱りを受けるかもしれませんが・・・一般論を書かせていただきます。
宗教にのめり込むと、自分自身の判断力も決断力もなくしてしまい、教祖の言いなりになって自分や家族の行為行動の判断までゆだねてしまいます。
これは宗教だけではなく、有る特定個人に対してでも当てはまりますし、また、暴走族や一般企業の営業畑などの組織でもカリスマ性の高い統率者の下では有り得る事でしょう。
それを宗教では「教えに従う」とか「すがる」などという表現をし、その他組織では「掟に従う」とか「決まりや規則・規定に従う」と表現をしているはずです。
要は、その教えに従うことを自分だけでなく、周囲にも強制したり、言い張ったりするところに問題があります。
掟であっても規則であっても、周囲の状況や社会的迷惑なども加味せずに、強制的に従わせてしまう事が問題だと思うのです。
これは、何年か前にサリン事件を起こした新興宗教団体で、立派な学歴や知識を持った人が罪を犯していきました。
しかも、イジメやリンチをしていました。
正しい生き方を教えているはずの宗教団体がリンチや人殺しをしていました。
でも、世界では宗教戦争がとても多いですよね。
不思議でなりません。
それでは、このような恐怖なできごとは新興宗教だけかというと、そうではないのです。
カリスマ性があるリーダーなどと表現される人がいる集団にも近いものがあることをご存知でしょうか。
私が聞いた営業畑の例では、
「一日に必ず○本の成果を上げて来い」と言われ、夜の10時になって「半分しか成果が上がりませんでした」と言って帰社しようとしたところ、「○本上げて来いと言っただろう、上げるまで戻ってくるな」と言われたそうです。
そこで、「もう夜10時過ぎたので訪問できません」と言ったところ、「ふざけるな、警察もコンビ二も病院だって24時間営業してるぞ」と言われ、泣く泣く活動を続けたということです。
「えー、迷惑は考えないの? それであなたは辞めなかったの?」と私が聞いたところ、「次からは早い時間から上げられるように努力したし、夜でも困ったときに行けば何とか助けてくれる所を事前に作っておきました」とその人は言うのです。
また、別の人は「テレアポ業務でアポが取れなかったら、据置電話の受話器を手にガムテープで巻きつけられ、立ったまま仕事をさせられた。疲れて座りたくなるし、メモも取りにくいから、必死になってアポを取って座れるように努力した」と言いました。
もちろん戦前の話ではなくこの10年の間のでき事で、これは、自由競争がもたらした罪だと思います。
しかし、過酷な営業戦争は営業マンにだけではなく、研究者にも襲い掛かっているのです。
今までは五年かけて研究をして新しい製品を作り生み出していればよかったのに、最近は毎年新製品を生み出さなければならないそうです。
だから、じっくり研究に取り組む事が許されず、研究者の欝や自殺が増えてきていると聞いたことがあります。
何故、新興宗教にしろ、会社であっても、その他組織でも、この様な悲惨な結果を生むのでしょう。
それは、ある空間にいると、服従することしか考えられず、自分で決断することができなくなってしまうのではないでしょうか。
不良青少年団体(どの様な表現をしたら良いのか分からずこの様に書きました)のリンチ事件や、新興宗教団体のお布施で、教祖の指示に従い、配偶者や家族に無断で財産の総てを寄付してしまって一家が泣いて暮らしているなどと良く聞く話です。
それだけでなく、企業内パワーハラスメント、学校内アカデミックハラスメント、どれもこれも根っ子は同じなのではないでしょうか?
これを洗脳されている状態といわずしてなんと表現したらよいのでしょう?
なぜ教祖の言う事をそこまで信じて言いなりになってしまうのでしょうか?
なぜ横暴な上司の言う事を周囲までが聞いていじめをするのでしょうか?
また、権力を盾に弱い者いじめで憂さ晴らしをしているのは何故なのでしょうか?
それは、支配者と服従者それぞれが、各個人の中に、基盤となる考え方の規範がないからです。
総ての判断が損得勘定だから、悪いことでもするし、良い事でもしないし、我慢をして満足しているのです。
つまり、家には大黒柱が必要ですが、その柱となるものがないから、普段はいいのですが有事の場合に大問題が起きてしまいます。
その考えの規範が理念であり信念です。
例えば会津什の掟にある「ならぬことはならぬのです」これが人間の信念になるのです。
人の嫌がることはしない ⇒ 惻隠の情
人に迷惑になることはしない ⇒ 恥の概念
人が喜ぶ事をする ⇒ 礼儀
わがままをせずに周囲のことを考える ⇒義の精神
などが、教えられていないから、信念をもてないのです。
過去の日本軍の一部のみを大きく取り上げて、65年も経った今、こんな日本にしてしまった人間がとやかく言えるでしょうか?
大日本帝国軍は少なくても、国(故郷)に残してきた家族を守るためという信念があって自分以外の人の為に命を投げ出していました。
今現在起きていることは、自分の強欲を満たすためであって、自分以外の人を守るためではないですよね。
やはり、終戦記念日を前日にして、改めて今の日本に道徳教育が必要だと声を高くして申し上げたいのです。
GHQの対策で、私たちは大切な愛国心・道徳(修身)教育・活学(歴史上実在した偉人の生き様を学ぶ)を捨てざるを得ませんでした。
それなら、そのGEQから独立した時、取り戻す必要があったのです。
歴史は勝者によって作られるのは当たり前の事実です。
勝者は聖人や賢者だから勝ったのではなく、喧嘩がつよかったのです。
戦略より、優れた武器を持っていたからです。
つまり、オタクになっていても、発明力があればよかったのです。
それなのに、いつまで経っても必要な愛国心を取り戻さずに今日まで来たのですから、悪いのはGHQではなく、それを決断した日本人の当時の政治家ではないでしょうか?
現在起きていることは、間違いなく過去の結果です。
60年経てば還暦といい、一巡して、総ては始まり(基点)に戻るのです。
だから、今さら66年以上前の戦争の事を持ち出すこと自体、浅はかで無知と言えるのではないでしょうか。
今は前の60年間にしてきたことが結果となって現れてくるのです。
戦前戦中のことはもう終わった事と捉える方が賢いと思います。
だからこそ、自民党だの民主党だのと党を言っておらず、総てが協力して日本の道徳再起を図って、愛国心が高く、安心して暮らせる日本を再生して欲しいと思います。
外国籍の外国に居住する子供に、なぜ育児手当や子供手当てを出す必要があるのでしょうか?
出したければ、出すと決断した人の個人資金で賄ってはいかがでしょうか?
そのくらいの判断ができない政治家や官僚を生んでしまった事に、国民全員が反省する必要が有ると思います。
全員で反省すればよくなると思います。
もう一点を見て、騒ぎ立てるのはやめにしませんか?
憲法9条だって、そこだけを見ていてとやかく言っても、何も解決しないどころか周辺の国々に侵略されてしまいます。
戦争を絶対に興させたくないなら、世界を納得させる必要があると思います。
それには、日本という国が世界にとって必要で大切な国になるのです。
それは、どうしたら成れるのでしょうか?
それを武士道協会で発信して行きたいと思っています。
今、子供たちに道徳教育をしなかったら、子供の将来に幸せはありません。
どうか皆さん協力してください。
8月10日日記
奈良へ到着し、ご指示を頂いた通りにホテルへチェックイン。
最上階で見晴らしの良い部屋でした。
大きな窓のカーテンを開けると、面前に松ノ木の天辺が届いており、その向こうには小高い緑の山がありました。
その横には龍の形をしたくもが2体浮かび、神秘的な雰囲気が漂っていました。
次の瞬間私は天津祝詞を奏上してました。
その小高い山はは畝傍山で神武天皇陵と橿原神宮でした。
すると突然の雨。
一気の路面が濡れていき、窓ガラスも雫が垂れ始めました。
まるで禊のようです。
到着と同時に橿原神宮にご挨拶に行こうとおもっていたのですが、この雨で諦めてホテルの窓から御挨拶に代えさせて頂きました。
明日早朝に行こうと心を新たに、お迎えにいらして頂けるのをホテルのロビーで待ちました。
今日は葛城青年会議所で講演をさせて頂きました。
組織力に焦点をあてた武士道をお話させて頂きました。
この素晴らしい日本という国家を、力強い国に蘇らせるためには、青年会議所の力が必要だと思いました。
皆さんが熱心に聴いてくださり、私も嬉しかったです。
葛城青年会議所の益々の発展を祈りました。
そして、日本を建て直すには、若者の力が必要だと思いますので、心から期待している次第です。
ホテルに戻ると、ヒノキの温泉があると言われて入りました。
大きなお風呂で気持ち良く、一日がとても充実していました。
2010年8月10日 11:36 PM | 日記 |
『私も一言物申す』 世の中に一言!! 一言私にも言わせて(^。^)
第九回目のテーマは「大東亜戦争」
祖母が大東亜戦争と言って、母は太平洋戦争と言っていたように思います。
私は学校で第二次世界大戦か太平洋戦争と習ったような気がして・・・とてもあいまいで記憶がありません。
日本の国が国会で決めた言い方は大東亜戦争なのだそうです。
大人になるまでしりませんでした。
学校で勉強している間中、歴史は全然面白いと思わず、苦痛でしかありませんでした。
しかし、今は国史(日本史)が楽しくてなりません。
なぜ国史としたか? 馴染みがない言葉だと思いますが、国語は我々日本人いとって日本語です。
国史は自国の歴史という意味ですから、日本史ということはまるで外国扱いに感じますね。
つまり、日本語の授業と言わないように、歴史も国史と言う方が馴染み深くなるように思うのです。
初めて歴史が楽しくなったのは、実在した人物の生き方を知った時からです。
その人物から夢が広がっていくのを感じました。
学校の歴史では、大東亜戦争は、第二次世界大戦としてパールハーバーを日本が突然不意打ちをして攻撃して被害を与えたと教えられました。
なぜ攻撃したか?の一番大切な部分は『後からつけられた偽りの理由』を教えらてきました。
でも、あまり気にもならず、考えもせず、ただただ歴史はつまらないから、授業が苦痛でしかありませんでした。
それから幾年も過ぎたある日、渡部昇一先生の本を読んで、頭をハンマーで叩かれたような衝撃を受けました。
それから、すっかり国史にはまり、如何に昭和天皇が素晴らしい方だったか、どんな思いで我々の祖先がこの国を守ったか知りました。
でも、未だに『日本が戦争を仕掛けたから・・・』となどと考えられないような時代遅れの言葉を聞きます。
それも、終戦直後に生まれた世代の人たちから聞くことが多いのです。
日本は、戦略の為に戦争はしなかったそうです。
日本は、自国が独立国として存在し、2600年以上も続いた母国を後世に無事に引き渡すために選択をしたそうです。
私は日本人だから、こちらを信じます。
私が今暮らせる日本の為に戦ってくださった先祖の方々の気持ちを考えると、学校で習ったことは信じられないことなのです。
だから、私は、日本を良くするために何ができるかを考え、私たち日本人がみんな幸せになるにはどうするかを考えて、辛い戦争を戦い抜いて守ってくださった先祖の英霊に感謝をして暮らす生活を取り戻したいと思います。
これは一般的に戦後に言われている宗教ではありません。
亡くなったおじいちゃま や おばあちゃま、ひいおじいちゃま や ひいおばあちゃまに感謝をするということです。
明日は広島に原爆が落ちた日です。
朝、起きてから食事の前に黙祷をする人が何人いるでしょうか?
私も今までお祈り(キリスト教ではありません)をしたことはありませんでした。
でも、明日は祝詞を奏上した後で、黙祷をしようと思います。
皆さんはどう思われますか?