NPO法人武士道協会

これまでの名言集

広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ

五箇条の誓文

▼ この名言の解説
 慶応四(一八六八)年三月十四日に、明治天皇が天地の神々に誓った「新国家の基本方針」の冒頭である。
 以下、「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行ウベシ・官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス・旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ・知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」と続く。
 しかしそれまでの徳川幕府の政治に慣れた日本人にすれば、目から鱗が落ちるような新鮮な国家運営方針だ。しかもそれを天皇が神々に誓って「必ずこれを実行する」と告げたのだから、大いに日本人に勇気と励ましを与えたに違いない。
 起草者は越前藩士由利公正(三岡八郎)だという。由利は横井小楠や坂本竜馬から多大な影響を受けた。三人で親しく酒を飲みあったこともある。
 したがって由利が書いたこの五箇条の誓文のルーツは、竜馬の「船中八策」の精神を濃厚に採り入れている。
 しかしこの精神は必ずしもパーフェクトには実現されなかった。自由な言論を政府は保障せずに、逆に弾圧を行うからである。いずれにしても、明治維新はこうしてはじまった。

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条約ハ大君(将軍)ノ名ヲ以テ結ブトイエドモ、以降朕《ちん》ガ名ニ換《か》ウベシ

明治天皇

▼ この名言の解説
 明治天皇が詔書を出して外国公使に告げたこの文章のはじめに「朕《ちん》ハ大日本天皇ニシテ同盟列藩ノ主タリ」と書き出している。つまりいままで大名の主は将軍だったが、これからは天皇になるという宣告だ。
「朕将軍ノ権ヲ朕ニ帰サンコトヲ許可シ、列藩会議ヲ興シ、汝ニ告グルコト左ノ如シ」と続けている。将軍が政権を自分に返したので、これを許可し、大名会議を興してその上に君臨するということだ。
 だからさらに「朕国政ヲ委任セル将軍職ヲ廃スルナリ」とはっきり将軍職がなくなったことも告げている。
 しかしこの段階では何度も「内外ノ事トモニ皆列藩ノ会議ヲ経テ」といっているのは、明らかに新政府が「大名会議」を頼りにしようという気持を持っていたからだ。
 しかしこれは一応通るべき手続きのひとつの段階であって、大名会議というのはそのまま「薩長を主とする藩閥会議」と読み替えても間違いはない。
 やがて大名家(藩)は廃止され、藩はそのまま中央政府の統括下に置かれる地方自治体にされてしまうからだ。

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外交権は依然として徳川政権にある

徳川慶喜

▼ この名言の解説
 王政復古の号令が出ても徳川慶喜はへこまなかった。かれは大坂城に外国の代表者を集めて、「条約を結んだのはわたしの政府なので、外交権は依然として徳川幕府にある」といった。
 おかしな宣言だ。幕府の権限を朝廷に返上してしまったのだから、その中には外交権も当然入る。しかし慶喜はそうは思わない。条約を結んだのは徳川幕府の名なのだから、その事実は生きているという考えだ。
 しかもかれは王政復古について、「一部の大名が幼主を挟み、叡慮に託し、私心を行い、万民を悩ますは見るに忍びず」とまで言っている。
 つまり王政復古というのは薩長の謀略によるものであって、全大名の意志ではない。全大名の心は依然として幕府にあるということだ。
 これは慶喜だけの考えではなかった。土佐の山内容堂も同じような考え方をした。だから慶応三(一八六七)年十二月九日に御所で会議が開かれたときも、容堂は、「なぜ徳川慶喜をこの席に呼ばないのか」と文句を言った。しかし短刀を懐にした西郷隆盛たちのプレッシャーに負けて容堂もついに黙り込んだ。
 しかし容堂的な考えをする大名や公家はかなりいたようだ。慶喜もおそらくそのことを知っていたから、外国の代表に対しこんなことまで告げたのだろう。しかし、所詮は未練であり、愚痴だ。また歴史の流れに逆行することばだ。
 その証拠に、慶喜が外国代表にこんな話をした三日後に、今度は明治天皇の詔書が出ている。

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諸事神武天皇創業の古《いにしえ》に復し

王政復古の大号令(宣言)

▼ この名言の解説
 最後の将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還したのは、慶応三(一八六七)年十月十四日のことである。
 これを受けた朝廷は眉を寄せた。それは、慶喜側がひそかに予想したとおり「いま政権を返上されても、長年武家に政治を委ねてきたので公家にはその能力がない」ということが顕になったからだ。
 しかし武力討幕派の西郷隆盛や大久保利通、あるいは木戸孝允たちは岩倉具視を戴いて強引にこれを押し切った。つまり「いま弱気になったのでは、慶喜の思うままになる」と憂えたからだ。
 そこで、慶応三年十二月九日にこの大号令を発布した。つまり政権を返上しても、どうせ政治処理能力のない朝廷は、われわれにもう一度政務を委ねるに違いないと目論んでいた慶喜側の取らぬ狸の皮算用を、見事に粉砕したのである。
 薩摩藩と長州藩は幕府との決戦を覚悟していた。西郷など「その方がよい」と考えている。この辺は中岡慎太郎の「戦争の効用」を明らかに信じていた。坂本竜馬が考えた「共和路線(大政奉還)」は、見事に吹っ飛ばされてしまった。これが武力討幕派の強烈な巻き返しである。

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世界の海援隊でもやりますかな

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 大政奉還が実現された後に、竜馬は頼まれて「新政府綱領八策」というのを作っていた。新しい政体の性格を八カ条に組み立てたものだ。
 これを見た西郷が、「ついでに登用される人材の名も書いてほしい」といった。竜馬は自分の知っている志士たちの名を書き連ねた。
 見た西郷が眉をひそめた。「坂本先生、あなたの名がないが?」。すると竜馬は、「役人はわたしの性に合わない。まあ、世界の海援隊でもやりますかな」と答えた。
 人間の自由な精神を尊重する竜馬にすれば、言葉どおり役人になって法律に縛られ、日常行動も制限をされるような生活は性に合わない。やはりのびのびと船に乗って世界の海を走り回る方が性に合っていた。
 しかしこれもわたしの想像だが、そんなことをしていたらおそらく明治初年にかれは“大疑獄事件”を起して牢屋へぶち込まれてしまっただろう。そういう事件が次々と起こるからだ。つまり藩閥の争いが表面化するからである。政争のいやらしさが次々と起こる。
 そんな状況は竜馬にとっていたたまれないものに違いない。もしそんな状況に身を置いたとすれば、竜馬は「こんな状況を生むために幕府を潰したのではない」と怒ったことだろう。
 その意味では、竜馬には気の毒だが暗殺された日にこの世から去った事が、かれにとっては幸福だったのかもしれない。

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ほたえな!(さわぐな)

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 これは慶応三(一八六七)年十一月十五日に、坂本竜馬が中岡慎太郎とともに暗殺される寸前に使用人に向かって投げつけた言葉だ。
 この夜、竜馬と中岡は、京都四条河原町通り蛸薬師の、土佐藩出入りの醤油商近江屋新助の二階奥の部屋にいた。
 これはわたしの推察想像だ。この夜、二人はおそらく激論していたに違いない。武力討幕を主張する中岡と、いや、平和に政権を幕府から天皇に移動させるべきだと説く竜馬と、意見はついに噛み合わない。
 別項にも書いたように、中岡慎太郎はすでに土佐陸援隊を率いて武力討幕軍に加わるつもりでいる。その日をいまかいまかと待っていた時期だ。そんなときに竜馬が大政奉還をさせるという余計なことをしたので、討幕派の連中はみんな怒っていた。
 この夜、かねてから竜馬の生命を狙っていた暗殺者は、そっと近江屋に入り、階段を下りてきた使用人をいきなり惨殺した。
 転がり落ちる音がしたので竜馬が「ほたえな(さわぐな!)」と叱ったのである。土佐の方言だという。
 このとき竜馬は険悪になった空気を和らげるために、使用人に「シャモを買って来い」と命じたばかりだった。
 事件を聞いて白川の陸援隊士が駆けつけた。しかしこれもわたしの想像だが、かれらがとりすがって何とか生命をとりとめようと努力したのは中岡慎太郎の方であって、坂本竜馬は放り出されていたのではなかろうか。竜馬の名が有名になるのははるか明治も末年のころであるからだ。

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富国強兵は戦の一字にあり

中岡慎太郎

▼ この名言の解説
 中岡慎太郎は坂本竜馬の盟友だといわれる。竜馬が土佐海援隊を指揮、中岡は土佐陸援隊を指揮していた。
 しかし中岡慎太郎はもともと「戦争の効用」を信ずる主戦論者だ。かれの頭の中にはアメリカの南北戦争があったのだろう。「共和制などという生温いことをやっていたのでは日本は変革できない。血を見てこそ成就する」と主張していた。だから大政奉還が実現したとき、かれは“拍子が抜け候”といっている。
 それまで薩摩藩も長州藩も土佐藩も芸州藩も「武力討幕」を実現すべく、着々とその準備を進めていたからである。
 大政奉還論を引っさげて坂本竜馬が京都白川の陸援隊本陣を訪ねたとき、中岡は竜馬に軍装に身を固めた陸援隊士や、揃えた大砲・銃などを見せながら、「このとおり討幕挙兵の準備は整っている。いまは時期を待つだけだ」と自慢げに説明した。
 腹の中で竜馬は(これは弱ったことになったな)と思ったに違いない。つまり、坂本竜馬と中岡慎太郎とは同志ではあるが、その進もうとする路線が全く違っていたからである。
 竜馬自身、故郷への手紙に「中岡慎太郎とは同志だが、考えるところがしばしば食い違うので弱っている」と正直にこぼしている。しかし同時に「そうはいうものの、中岡以外本当の相談相手はいない」ともいっている。

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よくも断じたまへるものかな、よくも断じたまへるものかな

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 慶応三(一八六七)年十月十三日に、在洛の大名や幕臣に大政奉還の発表をした慶喜に感動した坂本竜馬の言葉である。
 後藤象二郎は、この日の慶喜の決断を、すぐ手紙にして竜馬に報告した。受け取った竜馬は後藤の手紙を読むとたちまち眼に涙を浮かべた。そして脇にいた連中に、
「将軍家の今日の心中をさこそと察したてまつる。よくも断じたまへるものかな、よくも断じたまへるものかな」と感動した。
 そして、「おれは誓ってこの公(慶喜)のためには一命を捨てるよ」と言い放った。竜馬にとって生涯最高の感動の日であった。
 船中八策を基にした大政奉還こそ、かれが渾身を傾けた政治目的の達成だったのである。それは、横井小楠や師の勝海舟から教えられたアメリカを範とする「共和政治」への接近であり、日本の民主的な解体再編成でもあったからだ。
 かれの船中八策には、議会制民主主義と同時に、すでに憲法の制定の必要性まで説いている。
 しかし、この夢はそう簡単には実現されない。やはり武力討幕派がその意志を決して折るようなことはなかったからである。
 大政奉還は徳川慶喜のいわば武力討幕派への“肩透かし”だった。しかし討幕派の方もすぐ逆襲に出た。大政奉還を根底から覆すような“肩透かし”策を実行するからである。

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いまの幕府軍で薩長連合軍に勝てますか

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 大政奉還建白運動は、後藤象二郎一人が駆け回っていたわけではない。坂本竜馬も活躍した。
 かれは後藤から「建白書は永井殿に提出した」と聞いたので、竜馬は永井尚志の説得工作にかかった。
 この時の永井は、幕府の大目付のポストにあった。あまり幕臣を信用しない将軍徳川慶喜が、かなり信頼感を置いた数少ない幹部の一人だ。
 竜馬と会った永井は明確な回答は与えなかった。かれ自身もまだ迷うところがあったからだ。
 そこで竜馬は永井にこう聞いた。「いまの幕府軍で薩長連合軍に勝てると思いますか」。永井はジロリと竜馬を見返した。しかし目を宙に上げるとやがてポツンとつぶやいた。「残念だが勝てないな」。
 そこで竜馬は畳み込んだ。「それでは、建白を御採用になるほか道はないではありませんか」。
 このときの永井はどぎまぎしたという。一介の商人郷士からここまで畳み込まれているというのは、さすがに器量の大きい永井にしてもやはりカチンと来るものがあったのだろう。
 しかし永井はその直後こう言っている。「坂本竜馬という人間は、後藤象二郎よりもはるかに器量が大きく、その説くところは面白い」。
 土佐藩の代表として二条城に赴く後藤象二郎に、坂本竜馬は、「決死の覚悟で行ってほしい。もしも大樹(将軍)が建白を御採用にならぬときは、腹を切ってくれ」といっている。竜馬も必死だった。
 そして、「そのときは、おれの率いる海援隊で、大樹を刺し殺しておぬしの仇を討つ」とまでいっている。
 人を殺すことを好まぬ竜馬にしては、かなり大胆な発言だ。それほどかれは大政奉還に期待するところが大きかった。

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土州から前髪もんが出て来おって、おいどんの釣先を荒らしもす

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 後藤象二郎の必死の説得工作によって、まず芸州藩が軟化し、ついで薩摩藩の穏健派である高崎佐太郎(のちの正風)が了解した。
 高崎は、薩摩藩の主戦派である島津備後や家老の小松帯刀を説得した。そして、島津や小松が西郷を説得した。
 西郷が考える出兵は、島津や小松も賛成しているのだから、今仲間割れをしたのでは肝心な場合の出兵ができなくなる。しぶしぶ西郷は承知した。
「将軍の大政奉還を朝廷が受け入れなかったときは、直ちに軍を起しもすぞ」とドスを利かせた念を入れた。島津も小松も「そのときはそうせざるを得ない」と頷いた。
 西郷はまだ憤懣やるかたなく、「土州(土佐)から前髪もん(後藤象二郎のこと。後藤はこの時二十九歳だ。西郷から見れば青二才だったのだろう)が出て来おって、おいどん(自分、西郷)の釣先(釣り糸を垂れている水面)を荒らしもす(掻き回している)」と不満を述べ立てた。西郷にしては珍しい。
 しかしもともとこの大政奉還案は坂本竜馬の船中八策に拠るのだから、後藤も坂本には好感を持っている西郷にそういうことも話したに違いない。西郷も「坂本先生のおっしゃることなら、文句はなか」と諦めたに違いない。
 しかしこの時の西郷は「大政奉還なぞ、うまくいくはずがない」と思っていた。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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