NPO法人武士道協会

これまでの名言集

貴様たちは醜い草の群

平野国臣

▼ この名言の解説
 平野国臣は福岡藩士で、ユニークな志士活動を行った。国粋主義者で、日本の古い衣装を身にまとっては笛を吹きながら町を歩いて、人々の目を見張らせた。
 京都に出て活動したが、猪突主義はとらなかった。「時期を見なければだめだ」という慎重論者である。
 梅田雲浜の資金調達策にも協力し、彼なりにパトロンを開発した。備中(岡山県)の豪商・三宅定太郎や、下関の豪商・白石正一郎などは、国臣のこういう運動に理解を示した代表だ。
 しかし国臣の行動に懸念を抱いた福岡藩は、彼を捕らえ監禁した。のちに許されて、国臣は再び京都に行き活発な活動を開始する。そのころ京都治安の任に当たっていた新撰組に追いまくられた。
 掲げた言葉は意訳であって正しくは、
こころよくやがてみながら苅すてん ほこらばほこれ醜の醜草
 と悔しまぎれに詠んだ歌だ。醜草というのは新撰組への蔑称だ。
 しかし捕らえられて、やがて“禁門の変”のときに、他の志士と共に幕府の手によって斬殺されてしまう。

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妻は病床に臥し、子は飢えに泣く

梅田雲浜

▼ この名言の解説
 梅田雲浜は若狭(福井県)小浜藩士だった。雲浜というのは小浜の別称なので、これを号にした。情熱的な尊王家で、安政の大獄で処断された頼三樹三郎や梁川星巌たちと交流した。
 彼は熱烈な尊王攘夷論者ではあったが、単なる思想家ではなく実践行動の面でも力量を発揮した。
 とくに尊王運動にも資金が必要だと考え、ユニークな資金調達組織を考え出した。それは、上方の品物を長州藩に輸入し、長州藩から藩の製品を上方に輸出させるという方法だ。そのために雲浜は上方商会を作り、長州藩内にも商事会社的な組織を作らせた。
 当時は、かなり景気がよかったらしい。そのため吉田松陰は梅田雲浜を「志士というよりもむしろ商人といった方がいい」と皮肉っている。
 そんなとき雲浜の元主人である若狭小浜藩主の酒井忠義が京都所司代に就任した。酒井にとって家来の雲浜が京都で反幕行動の中心になっていることは許せなかった。
 結果、雲浜は逮捕された。江戸の牢で取調べ中に、病死した。辞世は、
君が代を思う心の一筋に わが身ありとは思わざりけり
 である。雲浜は幕末の“個人志士の時代”に最も輝いた典型だ。

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いま天下に事が起これば、解決の中心になるのは農民と庶民だ

橋本左内

▼ この名言の解説
 橋本左内は越前藩に仕える医者だった。大坂の適々斎塾に入って、主宰者の緒方洪庵からオランダ医学を学んだ。
 昼間の学習が終わると、夜そっと塾を抜け出て大坂の橋の下に寝ている病人やけが人を治療した話は有名だ。ある夜、橋本のあとをつけた塾頭の福沢諭吉が橋本の美しい行動に感動したという。
 しかし左内は時の藩主・松平慶永(春嶽)に信頼され、政治活動に飛び込んだ。松永慶永たちは阿部正弘や島津斉彬などと組んで、一橋慶喜を次の将軍に推し立てようとしていた。左内はこれを京都朝廷に工作し、天皇の承認を得ようと走り回った。
 その工作が半ば成功したとき、井伊直弼側の巻き返しが起こった。そのため橋本左内は井伊の腹心たちの“ブラックリスト”に載せられてしまった。
 結局、井伊側の巻き返しになって一橋慶喜は退けられ、井伊側が推し立てた紀州徳川家の慶福が第十四代将軍になり、家茂となった。
 井伊は反井伊派の連中をすべて処断した。安政の大獄である。橋本左内も悪謀の首謀者として首を斬られた。
 冒頭の言葉は彼が十五歳の時に書いた『啓発録』のなかにある一文だ。意訳してあるが、左内は「いまの世の中に立つのは農民や庶民であって武士ではない。しかしこの状況は口惜しい。自分も武士になって活躍したかったが、医者の身なので残念だ」と述べている。
 だから、オランダ医学を学んだものの、主人慶永の信頼によって政治活動に生命燃焼の時期をもてたことは、左内にとって満足だったかもしれない。

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きれと呉れろとやはらかに 真わたで首のこの異見
八千八声のほととぎす 血を吐くよりも猶《なお》つらい

桂小五郎

▼ この名言の解説
 桂小五郎は後に“明治維新の元勲”のひとりに加えられる。
 しかし、幕末のころは“逃げの小五郎”と呼ばれていた。肝心な事件の時に絶対にその場にいなかったからである。新撰(選)組に斬り込まれた池田屋事変のときも、その後の“禁門の変”のときにも現場にいない。
 彼はクールな政治家で暴動を嫌った。つまり「暴動で歴史が変わるはずはない」という態度を保ち続けた。が、そうは言うものの「言論だけでも歴史は動かない」とも思っていた。
 したがって、他人が武力行使をする場合にはこれを傍観し、歴史の動きをじっと見守った。そして「そのうちに必ずおれの出番が来る」という、いわば“タニマチ”の姿勢を保った。
 彼は決して臆病な人間ではない。若い頃から江戸の著名な剣客・斎藤弥九郎の道場で免許皆伝になり、塾頭をつとめた。しかし実際の斬り合いはそれほど経験していない。
 坂本竜馬は、「桂さんはいつもおばあさんの繰言ばかり言っている」と皮肉を言う。
 しかし桂の本質をよく見抜いていた高杉晋作は、「古い家をぶっ壊すのはおれの方が得意だが、新しい家を建てるのは桂にはかなわない」と言っていた。だから高杉は奇兵隊の反乱で掌握した長州藩政府をそのまま桂に引き渡す。桂はここを起点にして、討幕の路線をしっかりと歩んでいく。
 かなりのイケメンだったから、京都花街では人気があった。芸者幾松にいろいろ援助を受けた話は有名だ。幾松はのちに桂の正妻になる。

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三千世界の烏を殺し 主《ぬし》と朝寝がしてみたい

高杉晋作

▼ この名言の解説
 高杉晋作は“狂”という師・吉田松陰の言葉をそのまま自分の行動に活用していた人物だが、風流心も非常に強かった。
 彼はもともと詩人だ。京都遊郭で遊んだことも多い。そんなとき、妓楼でプロの女性と宿泊した朝、こんな都都逸を詠んだ。
 朝になると、烏がカアカアと鳴いてやかましい。そこで晋作は「この世の中の烏を全部殺して、相手の女性とゆっくり寝ていたい」というふざけた歌を詠んだのである。
 晋作は師の松陰が死んだあと、藩の命令によって中国の上海(シャンハイ)に行っている。そこで彼は、中国の国土の一部が占領され、しかも中国人民が列強諸国の奴隷として使われている有様をつぶさに見た。このとき晋作は「日本を絶対に清国の二の舞にしてはならない」ということを強く感じた。
 が、いまの日本の国力で列強と戦争しても到底勝てるはずはない。それなら思い切って開国し、いままで禁じられていた大きな船を造って、積極的に日本の方から外国へ乗り出して、その勢威を張るべきだと考えた。したがって、この時点で過激な攘夷論者であった晋作は、開国論者に変わったのである。
 しかし帰国後もそれを表に出すことはなく、依然として過激な攘夷行動を続けた。イギリス公使館を焼き討ちしたり、あるいは開国派の要人を暗殺する企てを立てたりする。
 これは晋作にすれば「幕府に攘夷を迫ることによって、幕府はいよいよ窮境に陥る。やがては自ら政権を投げ出さざるを得ない状況にまで追い込んでやる」という戦略があった。
 だから「いまの幕府ではとてもできるはずのない無理難題を次から次へと吹っかけてやる」というのがこの頃の彼の行動原則であった。
 しかし、余暇には京都花街にあって、こんな都都逸も作っていたのである。

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いよう、征夷大将軍!

高杉晋作

▼ この名言の解説
 安政の大獄を展開した井伊直弼は、安政七(一八六〇、三月十八日に万延と改元)年三月三日に、江戸桜田門外において暗殺された。
 以後、攘夷派の勢いが盛り返し、その核は京都になった。朝廷を背景とする長州藩を柱に、多くの攘夷派志士たちの世論によって、ついに第十四代将軍徳川家茂は、攘夷期限を時の孝明天皇に奉答するために上洛した。
 将軍家茂は攘夷期限を文久三(一八六三)年五月十日と奉答し、天皇が先頭に立つ加茂社・石清水八幡宮などへの攘夷祈願参拝の供奉を命ぜられた。これには公家や諸大名も従った。
 この光景を見た高杉晋作は感動し、思わず「いよう、征夷大将軍!」と叫んだ。
 驚いた幕吏がバラバラと晋作の前に駆けつけ、名と藩名を名乗れと迫った。このとき高杉晋作は「長州藩士高杉晋作」と応じた。
 長州藩と聞くと幕吏たちは顔を見合わせ、怯んだ。晋作に「騒がぬように拝観せよ」といってすごすごと引きあげた。それほど当時の長州藩の勢威は京都で強かった。
 このころ攘夷派の志士たちは、天皇を先頭に推し立てて攘夷軍を結成するだけでなく、その勢いを借りて江戸城に攻め込み、徳川幕府を攻め滅ぼそうとさえ考えていた。
 しかし、これはあまりに性急な計画であって、では徳川幕府を滅ぼした後の新政権はどういう組織で何をするのか、ということがまだ決まっていなかった。そのために、先走ったこの計画は壊滅してしまった。佐幕派が巻き返しを行ったからである。

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身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留(め)置(か)まし大和魂

吉田松陰

▼ この名言の解説
 吉田松陰が江戸の刑場で首を斬られたのは、安政六(一八五九)年十月二十七日の朝だった。前日の二十六日に、彼は『留魂録』という一文を書いた。事実上の遺書である。その冒頭に掲げたのがこの歌だ。
 その後に、いままでの幕府役人の取調べ状況や、同じ牢屋に入っている志士たちの消息を細かく書いている。そして松陰自身の心境と自分の後に続く同志への要望事項が書かれている。
 同じものが二通書かれたといい、一通は高杉晋作・久坂玄瑞・久保清太郎の三人宛になっていた。そしてもう一通は同じ獄内の同志に渡された。
 三人宛のものは現存せず、同志宛に残されたものが、後に松下村塾に学んだ者の手に渡り、現在、山口県萩市の松陰神社内に保存されている。
 松陰の思想は中国古代の思想家孟子から大きな影響を受けている。とくに孟子の説く「誠(人間の誠意)」を最も重視した。
 だから松陰はいまのように日本国内に混乱が起こっているのも、主として天朝と幕府との間の誠意の交流がうまくいっていないからだと説く。そしてそういう状況の中で、自分の誠意も必ずしも関係方面に届いたとはいえないと反省する。
 こういう世の中を変えていくのは、蚊や虻のような小さな虫でもそれが群がり集まれば山をも覆い隠すようなもので、身分のある者や武士などではなく、草莽(草むら)のパワーがそれを成し遂げるのだ、と説いている。
 高杉晋作は師のこの説に則って、後に「奇兵隊」を創設する。

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吉田先生の首を幕府にとられたことは、長州藩にとって口にさえできぬような大きな恥です

高杉晋作

▼ この名言の解説
 井伊直弼が大老になってから展開した安政の大獄で、吉田松陰も江戸に召喚された。そして罪が確定し斬首の刑に遭った。
 このとき、入牢中の松陰に何くれとなく差し入れをしたり、励ましたりしたのが高杉晋作だ。が、松陰はついに首を斬られてしまった。
 晋作は泣いた。そして故郷の先輩・周布政之助に冒頭のような手紙を書いた。
 のちに、松陰の罪が許されると、晋作は真っ先に小塚原の回向院に駆けつけ、現在の東京都世田谷区にあった毛利家の所有地に丁寧に埋葬する。現在の松陰神社だ。
 このとき、遺体を桶に入れた晋作一行は、上野の広小路に架かった御留橋(将軍以外渡れない橋)を堂々と渡った。駆けつけた幕吏に対し晋作は、
「天皇のお赦しによって無実になった吉田松陰先生の遺体である。下がれ!」
 と大きな声で叱咤し、そのまま通過した。胸の中では「松陰先生の恨みを必ず晴らす」と誓っていた。
 これが私的な報復ではなく、徳川幕府そのものを倒すという大きな志に発展していく。
 晋作は自分の号を“東行”といった。西行法師を尊敬していたせいもあるが、東へ行くというのはおそらく「東方の江戸城を滅ぼす」という意味もあるのだろう。

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事を論ずる時、しばしば高杉晋作の意見を例に引いた

吉田松陰

▼ この名言の解説
 多彩な能力を持つ門人が群がっていた松下村塾でも、やはり高杉晋作が群を抜いていたらしい。
 あるとき、門人の誰かがすぐれた門人たちを風刺画にして描いた。この中で高杉晋作は“暴れ牛”にたとえられている。それほど晋作の能力はすばらしかった。
 しかし誰かが暴れ牛にたとえたように、そのまま放っておけば世の中を暴れまわり、ろくなことにならない。そこで松陰は知的で落ち着きのある久坂玄瑞と晋作をよく組み合わせた。
 これは晋作・久坂の例だけではなく、松陰はよく門人たちの能力を見極め「長所を伸ばし、短所を直す」という教育方針で、お互いに苦手とするような仲間同士を組み合わせて勉強させている。
 久坂玄瑞は才幹のすぐれた青年であり、高杉晋作は教養が深くまた見聞も広かった。松陰は両者を伸ばすのには、この二人の長所と短所を組み合わせると、二人ともさらに成長すると判断したのである。
 このころ桂小五郎が高杉晋作を見ていて、「このままだと将来、他人がその言葉を聞かなくなるおそれがある」という懸念の手紙を松陰に送っている。
 松陰はその通りだと思い、高杉晋作の能力を高く買いながらも、しかしそれを少し押さえ込まなければ、高杉本人のためにならないと判断した。
 しかし、高杉のいうことは常に正論で、また生気があった。そのため事例研究(ケーススタディ)を重んずる松下村塾においては、松陰はしばしば高杉晋作の意見を参考に、みんなに披露した。そうすれば門下生たちの受け止め方で、高杉の意見が正しいか正しくないかがはっきりするからである。
 そうなると、高杉もバカではないから、しばしば反省することも多かった。

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天下は天下の天下なり

吉田松陰

▼ この名言の解説
 松下村塾の教育方法は「現実に起こった社会問題をテキストとする」というもので、特定の教科書を用意しなかった。門人たちはそれぞれ自分が「これ」と思うテーマを選んで勉強した。
 松陰はそれに対し、「わたしも共に学ぶ学友だ」といって、決して先生とか師とか呼ばせなかった。
 松下村塾には、萩の城下町から来た三人の非行少年まで入門していたという。松陰はこういう連中に対しても「なぜ非行に走ったか」ということを相手の身になって考え、一緒に解決策を探した。
「天下は天下の天下だ」というのは、「徳川幕府の私物ではない」ということである。松陰はこの段階で日本国体論を唱え、「主権の存在」を「天朝(天皇)」にありとした。これが日本の国論を真っ二つにする尊王論の主張だ。そして、水戸学から影響を受けた攘夷論を加えた。「尊王攘夷論」の確立だ。
 だから「将軍は諸大名を率いて外国勢力を打ち払い、天皇の御心を安んじなければならない」というのが、松陰の思想の根底を流れている。
 しかし、こういう現体制を破壊するような行動はなかなか世間の容れるところとはならない。
 突破するために松陰はよく“猛”とか“狂”とかいう言葉を使った。つまり常識的なことをしていたのでは、とてもこの現状を打破することはできない。思い切った勇猛心や、場合によっては普通の人とは違った狂の熱情を持たなければだめだという主張だ。
 これは烈公といわれた水戸藩主の徳川斉昭が、よく“天狗”という言葉を使ったのと似ている。斉昭のいう天狗とは「常識を離れて、思い切った行動をする人間」の意味だ。松陰の“猛”や“狂”に似ている。
 だから門人の高杉晋作や山県有朋も好んで“狂”の字を自分の名前にしている。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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