NPO法人武士道協会

これまでの名言集

男ならお槍かついでお中間《ちゅうげん》となって

萩の民謡

▼ この名言の解説
 攘夷実行の総本山である長州藩では、武士だけでなく農工商三民も奇兵隊などに参加した。そして男だけでなく女性も活躍した。
 萩城の脇にある菊ヶ浜に敵船を防ぐ防塁が築かれた。このとき、主として労働力になったのが女性たちだった。服装は筒袖襦袢《じゅばん》に小袴、そしてナギナタを持っていた。ナギナタを砂浜に立て、畚《もっこ》を担いで防塁づくりに勤んだ。
 このとき女性たちがうたったのがこの歌だ。
男ならお槍かついでお中間となって ついて行きたや下関
お国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻
まさかの時はしめだすき 神功皇后《じんぐうこうごう》さんの雄々しき姿が 鑑《かがみ》じゃないかいな
 余談だが、わたしはこの歌の正しい歌い方を知りたくて、随分萩方面を歩きまわった事がある。温泉場なら古い芸者が知っているかもしれないと思って、尋ね歩いた。
 湯田はじめかなり歩いたが、結局、長門温泉に正調“男なら”をうたうおばあさんがいると知って宿に招いて歌ってもらった。
 防塁をつくった女性たちがナギナタを持って行ったのは、おそらく四国の一領具足のように、いざ敵船が目の前に現れたときにはナギナタを持って、これを撃退する覚悟を決めていたからのようだ。
 しかしもともと女性は平和を愛する性格を持っている。戦争が好きな女性がいるわけがない。
 この歌を歌いながらも防塁づくりに勤しんだ女性たちは、みんな心の中では(敵船よ、来ないでほしい。来ても平和に日本と話し合ってほしい)と願っていたに違いない。

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わが志は遊侠にあり、仕官にあらず

清水次郎長

▼ この名言の解説
 琴平の金毘羅宮を尊崇していた任侠の徒に清水次郎長がいる。幕末の侠客だ。自分が参詣できないので子分の森の石松を代参させたという話が残っている。
 石松は東海道を下り淀(京都市伏見区)から三十石船に乗って大坂湾に出、瀬戸内海を渡って丸亀の港に向かう。この途中で、いろいろな客とやりとりをしながら次郎長一家の子分のランク付けを話題にする。
 なかなか自分の名が出てこない。そこで「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」という有名なせりふのやりとりが大いに客を沸かせた。浪花節の名作だ。
 しかし史実によれば、森の石松がたしかに金毘羅宮にお参りをしたという事実が見つからない。が、現地には「石松代参のナニナニ」という史跡がいくつも残っている。
 討幕戦争で旧幕府軍と新政府軍が戦ったときに海戦も行われ、駿河湾に両軍の遺体が浮いた。
 清水次郎長は「敵味方の区別なく、全部引きあげて丁重に葬れ」と子分に命じた。このことが新政府に知れて、「仕官しないか」と誘われた。
 次郎長は「わたしは博打打なので、到底世間の模範になるようなことはできません」と言った後、冒頭の「志は遊侠にあるので仕官ではない」と言い切った。自分の選んだ道に徹する小気味よい言葉である。
 ほんとうなら、四国の日柳燕石と次郎長との間に交流があれば面白いのだが、やはり当時の交通事情ではそれは無理なようだ。
 次郎長は江戸最後の日に勝海舟にも呼ばれている。この時は新門辰五郎と一緒に、最初は江戸焦土作戦を立てる。そのとき江戸市民の救出の役割を果たす約束をしていた。
 が、勝のその後の判断によって焦土作戦は中止になる。平和開城が行われる。清水次郎長も心からそれを望んでいたのでほっとした。
 現在、静岡市(清水市は静岡市と合併して新市は政令指定都市になった)の清水区に次郎長の大きな墓が立っている。同時に彼の家も保存されている。

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毎日象頭山を呑んでるよ

日柳燕石

▼ この名言の解説
 日柳燕石は四国の琴平(香川県琴平町)に住んで、金毘羅宮(金刀比羅宮)のすぐそばにいた。博打打だったので、“勤王博徒”と呼ばれた。勤王とつくのは、かれが頼山陽の『日本外史』を愛読し、勤王思想を持っていたからである。高杉晋作ほか随分世話になった志士がいる。
 金毘羅宮の「コンピラ」というのは、もともとはサンスクリット語の「クンピーラ」から来ている。クンピーラというのはインドでワニのことをいう。
 燕石は大酒呑みで、毎日大きな杯の中に目の前の象頭山が映ると、「よし、今日もこれを呑みほしてやる」といってグイグイ呑んだ。だから自分の住まいを“呑象楼”と名づけていた。燕石というのは、中国古代の地理書に出てくる故事で、燕山という山で採れる宝石はみんな偽物だったという由来から来ている。燕石自身がおれは偽物だという自虐趣味を持っていたのだろう。

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どぶろくも酒と思えば酒の味

森田節斎

▼ この名言の解説
 森田節斎は、大和五条の学者で、生家は医者だった。しかし交友範囲が広く、頼山陽やその息子の三樹三郎、吉田松陰、藤沢東がい(注)、四国琴平の勤王博徒日柳燕石など変わった人々が多い。
 永く独身生活を続けたが、友人の藤沢東がい(注)から、「わたしの門人によい娘がいるから結婚しないか」と勧められた。
 相手は琴といった。ところが藤沢の門人たちにきくと「容貌が必ずしも美しくない」という。
 節斎はそんなことは構わないといって琴と文通をした。なかなかすばらしい文章を書く。しかし琴は、「琴という名は名乗っていますが、肝心なものが欠けておりますので無絃と号しております」と言ってきた。節斎は気に入った。二人は結婚した。節斎が四十四歳、琴は二十九歳だった。
 やがて五条で天誅組が代官所を襲う。このとき節斎は備中(岡山県)の倉敷にいた。しかし世間では、「天誅組の中には節斎先生の門人が二人いる。節斎先生が後から煽ったのではないか」と噂した。真偽はわからない。

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公家はきめたことも実行しない

島津久光

▼ この名言の解説
 近代化した軍隊を率いて江戸城に押しかけ、幕政改革に干渉した島津久光は、しかし相変わらず無位無官の立場だった。久光を嫌う徳川幕府側では、かれを登用する気は全く無い。
 そこで久光は朝廷への関与を考えた。そのときかれは、「公家はきめたことも実行しないので、武家側が非常に迷惑している。国難の折、こんなことではどうにもならない。賢明な大名を朝議に参画させるべきだ」と言い出した。
 朝廷側はこのプレッシャーに負けて、「参予制度」をつくった。武家の代表を朝議に参画させるということである。
 一橋慶喜、京都守護職の松平容保・前越前藩主松平慶永(春嶽)・前土佐藩主山内豊信(容堂)・伊予宇和島藩主伊達宗城そして島津久光の六人が参予になった。
 朝廷側では「前例がない」といって相当抵抗したが、強引な久光に押し切られてしまった。こうして、なんの官位もない久光が、「朝廷参予」という輝かしいポストを得たのである。
 しかし考えようによっては、この参予制度は、任命された大名たちの徳川幕府に対抗する“新しい大名連合政権”といっていい。
 かつて死んだ老中阿部正弘が構想した“保革連合政権”が、違った形で京都に出現したのである。

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いままでは下からの叡慮である

孝明天皇

▼ この名言の解説
 文久三(一八六三)年の八・一八政変のときに、孝明天皇は勅語を出した。
「いままでは下からの叡慮(天皇の考え)だったが、これからの叡慮がわたしの本当の考えである」
 いままで京都に集まっていた尊攘派の志士たちは、共通して「われわれの背後には長州藩がいる。そして長州藩の背後には帝がおられる」と信じてきた。御所内の過激派公家も同じだった。
 しかし天皇にすれば、すでに幕府の責任者第十四代将軍徳川家茂には、妹の和宮を降嫁させている。そしてその条件の一つとして「幕府の手で必ず攘夷を行う」ということを約束させ、期限を文久三年五月十日とした。
 だから幕府が攘夷を実行さえすれば、孝明天皇には幕府を討とうとか潰そうなどという考えは全く無い。
 それが、一部の志士たちによって次第にエスカレートし、天皇が大和に行幸したときは供奉する軍勢がそのまま討幕軍に切り替えられるということを聞いて、天皇は眉をひそめた。そこまで考えてはいなかったからである。妹が嫁いだ家茂を信じたい。
 考えてみると攘夷派がそこまで過激化していったのは、御所内の公家の中に自分たちの考えを帝のお考えだと言って伝えていた者がいたのではなかろうか、天皇はそう思った。そこで冒頭のような勅語が出されたのである。

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まことにもって大機会なり

大久保一蔵

▼ この名言の解説
 この言葉は、文久三(一八六三)年の八・一八の政変が起こったときに大久保が呟いたものだ。
 それまでの日本の政局はほとんど長州藩が主導していて、他の藩の出番がなかった。ところが長州藩とその支持する尊攘派の志士たちの活躍が次第に過激になり、テロ行為を伴ってきたので、良識ある大名たちは一斉に眉をひそめた。朝廷の中でも、過激な公家たちに対する批判の声が起こった。
 長州藩やこれに属する志士たちが強気だったのは、時の帝孝明天皇が大の外国嫌いで、常に「攘夷をせよ」と言われていたからである。
 しかし志士たちは自分たちの活動を攘夷からさらにエスカレートして「幕府を討とう」という討幕思想にギアチェンジした。そして孝明天皇に大和へ行幸を願い、橿原神宮の前で攘夷軍を即討幕軍に切り替えようという策を立てた。さすがに孝明天皇も躊躇した。
 しかし公家の中山忠光を戴いた志士たちは天誅組を組織し、天皇の大和行幸の先触れとして大和五条(奈良県五條市)の代官所を襲っていた。
 長州藩は、将軍家茂が孝明天皇に奉答した攘夷期限を守り、五月十日には関門海峡を通過する外国船を片っ端から砲撃した。
 このままでは日本国がまるごと暴走すると憂慮した大名家が手を組んで政変を起こし、長州藩を京都から追放した。
 この状況に大久保一蔵が「いよいよ、薩摩藩の出番だ」と感じ、冒頭の言葉を口にしたのである。

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屋根から滑ったので落ちたのではない

大久保利通

▼ この名言の解説
 若き日の大久保一蔵が、鹿児島湾に侵入してきたイギリス艦隊と勇敢に戦ったことは別項に書いた。
 この時、一蔵は部下にこんなことを語っている。
「以前わたしが藩の城に勤めていた頃、イギリスの軍艦が鹿児島湾に入ってきた。ちょうど雨の日だったが、わたしは屋根に上ってイギリス艦をつぶさに眺めた。そのとき強い風が吹いて、わたしは濡れた屋根から滑って下に落ちてしまった。
 そのため、他の武士たちに大久保の奴はイギリス艦を見て腰を抜かし、屋根から落ちたのだとあざ笑われた。悔しかったので、今日は勇敢に戦うのだ」
 明治になってから、クールで合理性のある政治家大久保利通を、評論家たちは次のように論評した。
「大久保には、大した思想があるわけではない。しかし、先見力はずば抜けていた。そこから逆算して現実の処理に当たっていたから、その処理はすべて的確だった」
「大久保は、政界にあって渦の中心を作るのがうまい。渦ができると、かれは必ずその中心に座り込む」
 大久保利通の人間像がそのまま伝わってくるような評言だ。

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男児志を立てて郷関を出づ

月性

▼ この名言の解説
 長州藩というのは長門国と周防国とを領していた毛利家の藩名だが、正しくは長防藩あるいは防長藩と言うべきかもしれない。それを長門国の俗称である長州というのは、毛利家中においても多少、長門国と周防国の間に温度差があったような気がする。
 月性というのはいまの山口県柳井市にある妙円寺という寺の住職だった。「清狂草堂」という私塾をつくり、赤根武人や世良修蔵、大洲鉄然などの志士を教育した。規模は違うが“周防の松下村塾”と言ってもいいだろう。
 赤根武人は後に高杉の跡を継いで奇兵隊の総管(隊長)になる。しかし幕府に内通したという罪で斬刑に処されてしまう謎の人物だ。
 世良修蔵は東北戦争の時に政府軍の隊長として赴くが、仙台藩の有志たちによって殺されてしまう。長門国とはちょっと風土から来る気質差があったようだ。
 月性の詩を全文掲げると、
男児志を立てて郷関を出づ
学もしならずんば死すともかえらず
骨を埋む何ぞ墳墓の地を期せんや
人間いたるところ青山あり
 ぼくも若いころ、この詩を下手な字で半紙に書き、目の前の壁に貼ってよく口ずさんだものだ。オールドメンバーには懐かしい詩のはずだ。
 月性は変わっていて、優秀な弟子が育つと、「もう、自分の手には負えない」といって、どんどん高名な学者の塾に推薦した。赤根武人は月性によって松陰の松下村塾に推薦されている。

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物流をなめらかにするのには、日本は統一されるべきだ

本多利明

▼ この名言の解説
 本多利明はいまでいえば経営コンサルタント的な思想家で、特に国内の物流問題をテーマにしていた。
 かれは物流をなめらかにするためには交通網の整備が必要で、まず各藩(大名家)がつくっている関所や船番所を壊さなければだめだと主張した。
 しかしそのためには藩と藩が連携するようなまとめ方が大事であり、それが結果的には国家の統一に結びついていく。
 利明は交通だけでなく、貨幣問題にも見識を持っていたから、貨幣の統一を考える上においても、各藩がばらばらな藩札を使っていたのではどうしようもないと感じていた。
 自分の考えを彼は各大名家に行って説いてまわった。しかし、ほとんどこの突拍子もない考えに共鳴する者はいなかった。わずかに、加賀(石川県)の海商銭屋五兵衛が共感して、五兵衛は利明の説く“海に国境は無い”という考えに感動した。
 五兵衛は積極的に密貿易に乗り出していく。加賀藩のためだったが、やがて幕府の知るところとなった。五兵衛は捕らえられ獄死してしまう。しかもその時期が開国寸前という皮肉な時であった。
 久坂玄瑞や西郷吉之助などの大名間あるいは草莽の志士間の合従連衡という、半ば理念的な次元とは別に、実生活者たちは、自分の体験から国家の統一を願いはじめていたのである。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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