NPO法人武士道協会

これまでの名言集

いまの幕府軍で薩長連合軍に勝てますか

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 大政奉還建白運動は、後藤象二郎一人が駆け回っていたわけではない。坂本竜馬も活躍した。
 かれは後藤から「建白書は永井殿に提出した」と聞いたので、竜馬は永井尚志の説得工作にかかった。
 この時の永井は、幕府の大目付のポストにあった。あまり幕臣を信用しない将軍徳川慶喜が、かなり信頼感を置いた数少ない幹部の一人だ。
 竜馬と会った永井は明確な回答は与えなかった。かれ自身もまだ迷うところがあったからだ。
 そこで竜馬は永井にこう聞いた。「いまの幕府軍で薩長連合軍に勝てると思いますか」。永井はジロリと竜馬を見返した。しかし目を宙に上げるとやがてポツンとつぶやいた。「残念だが勝てないな」。
 そこで竜馬は畳み込んだ。「それでは、建白を御採用になるほか道はないではありませんか」。
 このときの永井はどぎまぎしたという。一介の商人郷士からここまで畳み込まれているというのは、さすがに器量の大きい永井にしてもやはりカチンと来るものがあったのだろう。
 しかし永井はその直後こう言っている。「坂本竜馬という人間は、後藤象二郎よりもはるかに器量が大きく、その説くところは面白い」。
 土佐藩の代表として二条城に赴く後藤象二郎に、坂本竜馬は、「決死の覚悟で行ってほしい。もしも大樹(将軍)が建白を御採用にならぬときは、腹を切ってくれ」といっている。竜馬も必死だった。
 そして、「そのときは、おれの率いる海援隊で、大樹を刺し殺しておぬしの仇を討つ」とまでいっている。
 人を殺すことを好まぬ竜馬にしては、かなり大胆な発言だ。それほどかれは大政奉還に期待するところが大きかった。

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土州から前髪もんが出て来おって、おいどんの釣先を荒らしもす

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 後藤象二郎の必死の説得工作によって、まず芸州藩が軟化し、ついで薩摩藩の穏健派である高崎佐太郎(のちの正風)が了解した。
 高崎は、薩摩藩の主戦派である島津備後や家老の小松帯刀を説得した。そして、島津や小松が西郷を説得した。
 西郷が考える出兵は、島津や小松も賛成しているのだから、今仲間割れをしたのでは肝心な場合の出兵ができなくなる。しぶしぶ西郷は承知した。
「将軍の大政奉還を朝廷が受け入れなかったときは、直ちに軍を起しもすぞ」とドスを利かせた念を入れた。島津も小松も「そのときはそうせざるを得ない」と頷いた。
 西郷はまだ憤懣やるかたなく、「土州(土佐)から前髪もん(後藤象二郎のこと。後藤はこの時二十九歳だ。西郷から見れば青二才だったのだろう)が出て来おって、おいどん(自分、西郷)の釣先(釣り糸を垂れている水面)を荒らしもす(掻き回している)」と不満を述べ立てた。西郷にしては珍しい。
 しかしもともとこの大政奉還案は坂本竜馬の船中八策に拠るのだから、後藤も坂本には好感を持っている西郷にそういうことも話したに違いない。西郷も「坂本先生のおっしゃることなら、文句はなか」と諦めたに違いない。
 しかしこの時の西郷は「大政奉還なぞ、うまくいくはずがない」と思っていた。

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そんなことは相談しないでくれ

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 後藤象二郎が薩摩藩や長州藩に大政奉還の根回しをしたときに、薩摩の代表格西郷隆盛が言った言葉だ。
 このころの西郷は、長州藩や芸州(安芸・広島藩の浅野家)と軍事同盟を結んで、着々と討幕軍を起す準備をしていた。
 そんな時期に突然、土佐藩が言い出しっぺで将軍の大政奉還論など持ち出したから西郷は眉をしかめた。
 だから、「そんなことはうちに相談されても困る。いま、なまじっか建白などされては、逆に幕府に覚悟を与えることになるぞ。われわれの挙兵の妨げになるだけだ」と文句を言っている。
 しかも言い出しっぺの土佐藩の藩論が一致しているわけではない。中岡慎太郎などは京都の白川に拠点を置いた“土佐陸援隊”の隊長として、薩摩藩と共同歩調をする約束をしている。
 西郷にすれば(同じ土佐の中で、なぜ藩論を統一できないのか)という疑問と不満があっただろう。
 後藤は作戦を変えた。薩摩藩と軍事同盟を結んでいる芸州藩の説得にかかった。芸州藩はしばらく出兵を見合わせようといった。
 そこで後藤は改めて薩摩藩の説得にかかった。西郷を納得させるためには、西郷に影響のある人物から説いてもらった方がいいと判断したからである。
 この点、後年の政略家になる後藤象二郎の面目が躍如としている。

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従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰(返)シ奉ル

徳川慶喜

▼ この名言の解説
 坂本竜馬が後藤象二郎に「船中八策」を示したのは、慶応三(一八六七)年の六月九日のことだ。
 受け取った後藤象二郎は走り回った。まず、主人の山内容堂を説得した。容堂も、最近は薩摩藩や長州藩に押し捲られて自分の出場がない。ということは土佐藩の活躍の場がない。乗った。そこで容堂の建白として、幕府の大目付永井尚志のもとに提出された。
 永井はもともと大政奉還論者だ。いまの幕府ではどうにもならないと思っていた。しかし幕府を見限ったわけではない。一旦政権を返上した後に、朝廷が長年政権から離れていたために実務が執れず、おそらくもう一度慶喜のところに、しばらくの間政務を執ってほしいといってくるだろうと踏んでいた。そこでこの論法で慶喜を説いた。
 慶応三年十月十三日、慶喜は在洛の大名や幕臣を全部二条城に集めた。そして「大政を奉還する」と告げた。大名たちは驚いたが、しかしあえて反対する者もなかった。
 実をいえば大名たちも疲れ果てていた。それは主に財政上の理由だ。大名家(藩)は今とちがって十割自治だから、すべての費用を自ら調達しなければならない。そのために不足分を補うために「藩札」を出した。しかしその藩札が濫発状況にあったので、いずれの大名家も財政難に苦しんでいた。
 とくに肝心要の中央政府である徳川幕府が混乱に混乱を極めているので、つかまるべきところがなくなってしまった。ほとんど投げ出したいような気持ちを持っていた。
 したがって、将軍の大政奉還はごく冷ややかに受け止められた。それは「将軍が政権を返上したのであって、われわれ大名には関わりがない。中央政府の形式が変わっても藩は大丈夫だろう」というような安易な気持があったからである。それほど中央政権と地方自治体との距離が広がっていた。
 そして将軍も幕府も、そういう大名たちを太い絆でつなぎとめることはもうできなかったのである。

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天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 これは坂本竜馬が土佐藩の重役だった後藤象二郎に、土佐藩船「夕顔」の船中で提案したものだ。有名な「船中八策」である。
 これをもとに後藤は旧藩主の山内容堂に建策し、最後の将軍徳川慶喜に、「大政奉還」を行うことを勧めたといわれる。
 しかしこの船中八策は、単に大政奉還のことだけが書かれているわけではない。「上下議政局を設け」と議会の設置も提言している。有名な「万機宜しく公議に決すべき事」というのは、明治維新後、明治天皇が「五箇条の誓文」として神に誓った誓文の中に「万機公論に決すべし」という有名な一文になっていく。
 だから竜馬の船中八策は、幕府消滅後の新政府の経営方針のほとんどを網羅しているといっていい。
 しかしこれは坂本竜馬一人の知恵によるわけではなく、それまでにかれが接触した横井小楠や大久保一翁や勝海舟、あるいは永井尚志など先輩たちが口にしていた言葉を拾い集めて、大成させたものだ。
 その意味では坂本竜馬の発想は、クリエイティブではなくむしろアダプテイション(潤色)の達人だったといっていい。つまり他人から得たヒントをさらに拡大して、大きなものに仕立てる能力に富んでいたのである。その中でもこの船中八策は竜馬最大の作品だといっていいだろう。

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幕府には日本政府の資格がない

薩摩藩

▼ この名言の解説
 これはパリで開かれた万国博覧会のときに単独に出品した薩摩藩の代表がいった言葉だ。
 幕府は万博への出品に対し「幕府で取りまとめるから各大名は出品する品物を申告するように」と指示した。
 ところが薩摩藩は勝手に万博にガラス工芸品などを出品した。しかも、出品者をはっきりさせるために○に十の字の薩摩藩旗を推し立てた。見物客たちは「日本には主権政府が複数あるのか」と首をかしげたという。
 しかし薩摩藩の出品したガラス工芸品は、当時世界一を誇っていたドイツの水準をはるかに抜いていた。みんなびっくりした。そして「日本にはこういうすぐれた工芸品がある。技術水準は大したものだ」と改めて日本を見直したという。
 有卦に入った薩摩藩は、パリにいた代表たちがしきりに「今の幕府には日本政府の資格がありません。真の資格者は天皇です」とさかんに宣伝しまくった。
 このことは当然、万博に出向していた幕府代表の耳にも入る。幕府から万博に出向していた責任者の中に渋沢栄一がいる。渋沢は万博出向者の事務長のようなことをしていたが、この時、かれはパリのナショナルバンクの頭取から、株式制度と銀行制度を教えられ、後に日本に戻って実現する。

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いまの幕府には人材がいない

ロッシュ

▼ この名言の解説
 フランス公使ロッシュは徳川慶喜に支持を約束し、幕府の近代化にはいろいろ貢献した。
 その中で「すぐれた人材をもっと登用すべきだ」と助言している。が、そのロッシュが見ても当時の幕府には能力のある人間が少なかった。
 ロッシュの助言によって慶喜は幕府の組織を改め、総裁制にした。が、六局の長として任命された総裁は、ほとんど能無しでどうにもならない。
 わずかに外国事務総裁に任命された小笠原長行(唐津藩の世子)と勘定奉行の小栗忠順、そして外国奉行の栗本鯤(鋤雲)などの少数のフランス派官僚が目に付くだけだ。
 さすがのロッシュも「これではどうにもならない」と考えはじめた。本国の対日政策も次第に冷えていく。

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祖宗以来、全権はわたしの手にある

徳川慶喜

▼ この名言の解説
 国内の大名が自分に従わなくなっただけでなく、外国も次第に疑いを持つようになった。将軍の威令が行われなくなってきたのである。慶喜は躍起になった。
 そこでフランス公使ロッシュにいわれたように、「兵庫開港は、天皇の許可を求めずに自分の手で行おう」と考えた。
 が、周りが止めた。やはり当時の国情では勅許がなければ日本の港は開けなくなっていた。そこで改めて朝廷に申請書を出した。朝廷は蹴った。
 そのため慶喜は外国公使を集め謁見の場で、「祖宗以来、日本の全権はわたしの手にある。したがって条約を実行するのはわたしである」と大見得を切った。
 これは徳川家康が幕府を開いたときに、天皇や公家に対し「今後行うべき仕事の範囲」を決めた法度に署名捺印させたからである。
 つまり天皇や公家は「政治には一切手を出さない。日本の神事や古文化の伝承に専念する」という念書を入れている。これが将軍や幕府側の「主権はこっちにある」という主張の根拠なのだ。
 ところが幕末の反幕府勢力は「内政権はそうかもしれないが、外交権については触れていない」と反撃した。

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あなたをマジェスティ(陛下)とはよびませんよ

パークス

▼ この名言の解説
 散々時間稼ぎをして勿体をつけた上で将軍になった徳川慶喜は、慶応二(一八六六)年の十二月一日と二日に「外国の公使・総領事との引見儀式を行う」とイギリス・フランス・アメリカ・オランダの各国に通知した。
 四国の代表は集まって「どう対応するか」と相談した。フランス公使のロッシュは「すぐ大坂に行くべきだ」と主張する。かれは新将軍慶喜とはべったりだから、早く慶喜の主権を認めてやりたい。
 ところがパークスが「もし行ったとしても、新将軍のことを何と呼ぶのだ?」と聞いた。ロッシュは「もちろんマジェスティ(陛下)だ」と応ずる。
 パークスは異議を唱えた。「それはおかしい。われわれと批准した条約を将軍は天皇に許可を求めている。そうなると将軍の立場は総理大臣のようなものであって、実際の主権者は天皇ではないのか」といった。ロッシュは舌打ちをした。
「いま、そんな難しいことを言うべきではない。現実に条約を締結し、批准したのは将軍と幕府だ」
「では、なぜ勅許を求めるのだ」
 この論争は、日本国内の有識者の間でも行われているように、結論が出ない。
 結局、パークスたちは大坂には行かなかった。ロッシュだけが単独で大坂に行き、慶喜に会って、
「早くあなたが主権者であることを証明しろ。それには兵庫開港を独断で行うことだ」とけしかけた。

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日本にはミカドとタイクンと君主がふたりいる

パークス

▼ この名言の解説
 これは駐日イギリス公使パークスが感じた日本の政治制度だ。
 タイクン(将軍)の方は、「日本の外交権は自分にある。だから、外国との条約は自分の名において結ぶ」といっているが、実際には京都の帝の許可がなければ条約は結べない。
 パークスはアーネスト・サトウなどの助言によって、この事実を認識した。「ヘンナクニダ」と感じた。そしてサトウには「いずれは日本も国王ただ一人とならなくてはすまないだろう」と感想を漏らしている。
 すでに薩英戦争の直後、鹿児島を訪ねたパークスは自分の考えを西郷隆盛に述べている。しかし、「こんなことを外国人が言い出すといろいろと問題を起すでしょうから、どうかあなた方、力のある大名家が国王を早く一人に絞るように御努力ください」といっている。ずるい。
 しかし、外国側にしても日本の外交権を持つ存在が複数あったのでは困る。西郷にこんなことを言うパークスは、すでに将軍や幕府の力を見限っていたといっていいだろう。
 したがってアーネスト・サトウや、武器商人のグラバーなどが「徳川幕府への最大の反逆者はわれわれかもしれない」と、後に述懐するのも理がある。
 こうなると、フランスは徳川幕府を応援し、イギリスは薩摩藩や長州藩などの西南雄藩を応援したということになる。
 したがって明治維新実現の国内戦争は、ある意味でイギリスとフランスの代理戦争だったとも言える。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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