NPO法人武士道協会

これまでの名言集

非義の勅命は勅命ではありません

大久保利通

▼ この名言の解説
 国内戦争を起すには大義名分が必要だ。最も手っ取り早いのは天皇の命によって相手を討つことだ。これは昔から権力者がやっている。天皇の命によるからこそ、敵を討つ軍勢は「征伐軍」といわれる。つまり天皇軍なのだ。
 第二次長州征伐を行うのにも、やはり幕府は天皇の許可を得なければならない。この工作を知った大久保利通は、果敢に朝廷工作に踏み切った。島津家の親戚である近衛忠房を動かし、二条関白や中川宮朝彦親王に働きかけた。
 大久保は第二次長州征伐の非義ぶりを主張し、「たとえ勅命が出ても、非義の勅命には薩摩藩は従いませんぞ」と脅しをかけた(これは事実そのとおりになる。第二次長州征伐に薩摩藩は出兵拒否)。第二次長州征伐の勅命はなかなか下らなかった。
 怒ったのが一橋慶喜である。それは第二次長州征伐の勅許を得るために、すでに第十四代将軍徳川家茂が参内していた。にもかかわらず、家茂はずっと控の間で待たされていた。脇の者が理由を聞くと、
「薩摩藩の大久保一蔵が緊急の申し談じをしているので」
 ということである。慶喜はすでに大久保一蔵の存在を知っている。何かにつけて幕府のやり方に嘴をはさみ、そして妨害する。いま御所にいるのはおそらく長州再征の勅許を出させまいとする工作に違いないと判断した。慶喜はこういった。
「一陪臣の意見を聞いて軽々しく朝議を動かすような事があっては、天下の大事だ。こんなことを認めるのなら、将軍はじめわれわれも一斉に辞任する」
 これを聞いてさすがに朝廷のほうも動揺した。結局、勅許は出た。大久保は面目を失った。以後「大久保評判よろしからず」ということになる。慶喜の猛烈な巻き返しが功を奏したのである。
 悔しがった大久保は中川宮に向かって「朝廷もこれ限り」と悪態を放った。このころの大久保の勢いは誰にも止められなかった。

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たとえ一藩でも天朝奉護、皇威を海外に輝かせよう

大久保利通

▼ この名言の解説
 すっかり硬化した長州藩に、もう一度鉄槌を加えようと、徳川幕府は第二次長州征伐を計画した。
 各大名家に出兵を促したが、どこも応じない。もう戦争はこりごりだというのが各大名家の本音だった。それに、軍費を調達するために税を重くしたので、かなりの大名家で農民一揆が頻発していた。
 大久保利通はこういう状況を見て「幕府にはすでに大名を統制する力がない」と判断した。幕命に背くということは、そのまま大名家が「割拠」を実行し始めたということである。これに乗り遅れてはならない。
 先の見通しの利く大久保はそこで「たとえ薩摩藩一藩でも天朝奉護、皇威を海外に輝かせるような大策に着眼すべきだ」と主張した。
 しかしまだこの段階で大久保は「討幕」とは言っていない。あるいは「徳川家も一大名家だ」と見ていたのかもしれない。
 大久保にすれば、長州再征が成功すれば、必ず幕府軍は薩摩藩を潰しに来ると信じていた。事実、一橋慶喜の計画は大久保の思うとおりだった。
 信じられないことだが、陪臣(大名の家臣)で、それも下級武士だった大久保利通という存在が、いまは天下を動かしかねないような力を持ちはじめていたのである。

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かれはかれ われはわれでいこうよ

大久保利通

▼ この名言の解説
 高杉晋作の奇兵隊の反乱は、幕府からみると第一次征長軍の参謀だった西郷隆盛(吉之助)が黙認したようなものだ。
 奇兵隊の反乱は藩庁を占拠し、改革的な藩政を行いはじめた。保守派は全部退けられた。したがって、高杉の大割拠方針は、長州藩は武士だけでなく全住民も結束し、来るべき危難に備えようということだ。当然、幕府側は目くじらを立て第二次長州征伐を思い立つ。
 こんなとき大久保利通は、「長州藩と手を組みたいが、これではだめだ。かれはかれ(長州藩は長州藩)、われはわれ(薩摩藩は薩摩藩)で独自の路線を歩むべきだ」と伊地知という同志に手紙を送っている。
 この段階における大久保利通の大決断は「薩摩藩も割拠独立」の決意だといわれる。

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これで幕府はほろびるぞ

大久保利通

▼ この名言の解説
 水戸藩は攘夷の総本山といわれていただけに、実際、行動に出る者もいた。
 藤田東湖の四男小四郎は、同藩の田丸稲之衛門や武田耕雲斎と図り、元治元(一八六四)年三月に筑波山で兵を挙げた。あくまでも尊王攘夷の実を挙げようというのが目的だった。
 この決起した組織を“天狗党”といった。天狗というのは徳川斉昭が命名したもので「常識に縛られずに思い切った行動に出る勇気ある人間のこと」といっている。
 しかし保守的な水戸藩の藩兵や幕府軍に追われて、天狗党は中山道をたどり京都を目指した。京都には禁裏守衛総督となった一橋慶喜がいる。「慶喜公にわれわれの真情を話そう」ということでひたすら道を急いだ。
 しかし慶喜にそんな気はない。使いを出して「京都に入るな」と命じた。やむを得ず天狗党は北陸路に入り加賀藩に降伏した。
 このとき加賀藩では天狗党員を虐待し、魚の蔵に丸裸で入れて食事もろくに与えなかった。そして多くの者が斬罪に処された。
 このことを知った大久保利通(当時一蔵)が冒頭の様な言葉を口にしたのだ。

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これより西郷の力を以って天下のためを為すべし

田中顕助(光顕)

▼ この名言の解説
 田中顕助は土佐藩の身分の低い武士だった。武市半平太(瑞山)に剣術を習っているうちに、その勤王思想に共鳴した。
 武市が土佐勤皇党を結成するとすぐ加盟した。しかし後に勤王党を藩が弾圧し、武市も切腹する破目に陥ると、田中は脱藩した。
 そして長州に行き、長州藩の尊攘派や滞留していた志士群と交流した。特に中岡慎太郎に大きな影響を受けた。
 坂本竜馬・中岡慎太郎の斡旋した薩長同盟のときにも、脇役として活躍した。また、中岡が結成した「土佐陸援隊」にも入隊する。
 こういう田中の行動を見ていると、かれには坂本竜馬よりもむしろ中岡慎太郎の生き方の方に共感を覚える事が多かったようだ。
 余談だが、慶応三(一八六七)年十一月十五日に坂本竜馬と中岡慎太郎が殺されたとき、まっさきに駆けつけたのは土佐陸援隊の面々である。
 筆者の想像だが、この時、陸援隊の面々はおそらく中岡慎太郎に集中し、坂本の方は放置されたのではなかっただろうか。豪放磊落な坂本の天衣無縫ぶりは、やはり誠実で礼節を重んずる中岡慎太郎派とはやや差がある。
 近江屋におけるそういう光景を想像すると、歴史から立ち上がる生き生きした人間像が目の裏に浮かぶ。

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知行合一の人物なり

中岡慎太郎

▼ この名言の解説
 これは中岡慎太郎の西郷隆盛に対する評言だ。
 その著『時勢論』の中で、中岡は当時交流のあった志士たちに論評を加えているが、西郷に対しては、「人となり肥大にして、古の安倍貞任などはこういう人物だったかと思われる。学識も胆略もあるが、いつも寡言(ことば少な)にして思慮深く、勇断に長じ、たまたま一言を出せば確然人の肺腑を貫く。徳高くして人を服し、しばしば艱難を経て事に老練す」と手放しで褒めている。
 小倉で会った時の交渉で、中岡慎太郎のような沈着冷静な理論家も一目で西郷に“人生意気に感ず”という気持ちを持ってしまったのだ。
 こう考えると、明治維新というのはやはり「人と人との出会い」が、大きく歴史を動かしていたと思える。しかもその人物の言行が、相手に感動を与え、昨日の敵を今日の味方にするような相乗効果が、明らかに幕末の大きなパワーの源になっていた。

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総督は芋に酔いましたな

一橋慶喜

▼ この名言の解説
 第一次長州征伐軍の撤兵は元治元(一八六四)年十二月二十七日に行われた。西郷と約束したとおり長州藩は五卿を筑前(福岡県)に移動させた。
 このときすでに高杉晋作は、奇兵隊及び諸隊に長州本藩に対する反乱を成功させていた。高杉は藩庁を乗っ取った。そして保守派に代え桂小五郎を大急ぎで呼び返し、改革派の手で藩政を握ったのである。
 こういう状況を一橋慶喜はじっと見詰めていた。そして、
「総督は手ぬるい、薩摩の西郷にだまされた」
 と見た。そこで総督の徳川慶勝に、
「貴殿は芋に酔わされましたな。芋の名は確か大島(西郷の変名)とか申すそうな」
 と皮肉った。
 徳川慶勝は前尾張藩主である。にもかかわらず薩摩藩の陪臣にすぎない西郷吉之助に絶大な信頼感を持っていた。これもまた西郷が「行動は常に赤心を腹中に置く」という、誠心誠意全力を尽くすという態度に胸を打たれたからである。慶勝の見るところ、
(西郷は、常に命を投げ出して事に当たっている)
 と思えたからだ。
 しかし「この際、長州藩を徹底的に叩かなければダメだ。その上で薩摩藩も叩く」と密かに決意していた一橋慶喜にすれば、こんな状況で幕が下ろされるのは我慢できなかった。それもこれも総督の徳川慶勝に勇気がないからだと見たのである。

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赤心を腹中に置く

西郷隆盛

▼ この名言の解説
「薩賊会奸」と書いて、あくまでも薩賊を憎む高杉晋作に会うために、西郷隆盛は自ら奇兵隊の本陣に行くことにした。周りでは止めた。
「殺されますよ」
 と引き止めた。しかし西郷は、
「いや、赤心を腹中に置いて行けば高杉さんも必ずわかってくれる」
 と、いうことを聞かなかった。そして、吉井友実と税所篤の二人だけを供に連れて、奇兵隊の本陣に行った。
 高杉も人物だ。いくら憎んでいても交渉相手をいきなり殺すようなことはしない。そして、西郷と話しているうちに高杉も感動家だからその赤心に打たれた。そして、
「わかった。五卿を移動させよう」
 と中岡慎太郎と同じように納得した。実をいえば本営を出るときに西郷は残る者にこう告げていた。
「おいは命を投げ出して高杉さんと交渉する。もしも高杉さんがおいを殺すような事があれば、それが口実になる。そのときは一斉に長州を攻めろ。そして滅ぼせ」
 こういう戦略を組んでいたのである。
 このやり方は明治になってから、西郷が「征韓論」でやろうとしたことと同じだ。かれは単身韓国に乗り込み、向こうが西郷を殺すような事があったら、そのときに日本出兵の口実ができると踏んでいた。
 が、高杉晋作もバカではない。それに高杉は詩人だから、感性が鋭い。西郷が嘘をついているかどうかすぐわかる。一目見て高杉は、
(西郷さんは絶対に嘘をつかない人物だ)
 と見抜いた。まさに赤心を腹中に置くという大胆な戦略が成功したのである。

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長人をして長人を所置させる

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 長人というのは長州人ということだ。第一次長州征伐のときに考えるところのあった西郷は、征伐軍の参謀に任命された。かれは断らなかった。これを利用してやろうと思っていたからだ。
 長州国境まで到達した征伐軍は、条件を出して長州藩に降伏を求めた。このとき厳しい処分を主張する幕府軍首脳に対し、西郷は、「長州人が自ら自分を罰するように仕向けた方がよい」といった。それは言葉は悪いが「この際、長州に貸しを作ろう」という魂胆があった。したがってこの時の処分は寛大で、
  • 長州藩主父子の文書による謝罪
  • 山口城の破却
  • 京都に突入した三家老の切腹
  • これを補佐した四人の参謀の斬罪
  • 長州滞在中の五卿(七卿のうちひとりは討ち死に、ひとりは病死)の移転などであった。
 この条件のうち、藩主父子の謝罪と山口城の破却は直ちに行われた。手間取ったのは、「五卿の移転」である。それは長州藩よりもむしろ中岡慎太郎たち日本浪人志士群と言っていいような集まりが、絶対にこれは認められないといった。かれらは、やはり、
「五卿を戴いている事がわれわれの存在意義を高めている」
 と考えたからだ。西郷はこれを聞くと、
「よか、おいが交渉し申そう」
 といって、小倉に行き、五卿の護衛隊長を務めていた中岡慎太郎に会った。そして、
「五卿を移転することによって、征長軍は引きあげる。その方がおぬしたちに有利ではないのか」
 と説いた。考えた末中岡は、
「わかった。西郷さんの言葉に従おう」
 と頷いた。しかしまだ強敵がいた。高杉晋作だ。高杉は前に書いたように「薩賊会奸」という四文字を下駄の裏に書いて踏みつけているくらいだったから、容易に薩摩藩を信じない。

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この上は共和政治以外ない

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 これは、元治元(一八六四)年九月十一日に、大坂で勝海舟と会った西郷が、直後、盟友の大久保利通(当時は一蔵)に書いた手紙の一節だ。
 勝がこの夜話したのは、いまの幕府には雄藩のいうことがどんなに正論であっても受け止めるキャパシティがない、むしろこれを握り潰す。そうである以上、明賢の大名が四、五人連合され、外国に勝るべき海軍力を持って日本の港を次々と開くことだ。そしてこの連合が外国と談判して条約を結べば、外国側もさだめし納得し日本を見直すに違いないなどと話した。
 だから西郷が大久保に書いた「共和政治」というのは、アメリカの民主主義的な共和政治ではなく、日本国内における賢明な大名の連合体をいう。
 大久保への手紙で西郷は、「はじめは勝という得体の知れない人間を、場合によっては斬るつもりでいた。ところが話しているうちに全くすばらしい人物だと感じ、ひどく惚れてしまった」と書いている。
 つまらない忠義はもうしないと心に誓った西郷は、しかしそれではどこにその忠誠心を披瀝すればよいかという迷いがあった。禁闕御守護とはいうものの、天皇のためだけに尽くして果たして国民が幸せになるのだろうかという迷いもある。
 それが勝の言葉によって「志を同じくする大名が四、五人同盟を結んで、新しい政権を打ち立てるべきだ」というサゼッションに、心の底から参ってしまった。西郷は思わず(それこそおれの求めていたものだ!)と快哉を叫んだに違いない。
 この時点において、勝海舟だけではなく西郷隆盛の心も完全に幕府から離れてしまった。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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