NPO法人武士道協会

これまでの名言集

松下村塾から日本を変えよう

吉田松陰

▼ この名言の解説
 これは吉田松陰が、下田からのアメリカ艦密航に失敗して藩に戻され、藩の牢獄生活を送った後、その延長として「松下村塾」を開いたときの宣言だ。正しくは『松下村塾記』という。冒頭に掲げた一文は、そのエキスの意訳だ。
 松陰は佐久間象山の弟子だったから、象山が主張する「この国に住む人間は、まず地方人であり、つぎに日本人であり、さらに国際人だ」という意識を持っていた。だからこの「松下村塾から日本を変えよう」というのは、当然その間に「松下村塾からまず長州藩を変えよう」ということになる。
 松下村塾はそういう「長州藩を変え、さらに日本を変え、世界の模範となる」という変革者養成の場でもあった。
 松陰が叔父の開設していた松下村塾を引き継いだのは、安政四(一八五七)年二十八歳のときで、彼が安政の大獄で首を斬られるのが安政六(一八五九)年の十月二十七日のことだから、塾を開いていたのはわずか二年足らずに過ぎない。
 にもかかわらずその門下から高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、品川弥二郎、赤根武人などのいわゆる“討幕の志士群”を輩出したことは、日本の教育史上全く例がない。目を見張るばかりの人材育成である。それだけ松陰の至純な魂が、行く道は違っても門人たちに強烈なインパクトを与えたといっていい。
 桂小五郎(後の木戸孝允)は松下村塾の門下生ではなく、松陰とは友人格であった。しかし、松下村塾の門人たちとは付かず離れずの関係を保ち、維新実現の道程では、これらの門人群と密接な関係を保った。
 とくに高杉晋作や伊藤博文との間柄はかなり深い。よく長州藩と薩摩藩の討幕事業を「関が原合戦の報復だ」という説があるが、そんな私的な小さな理由ではない。松陰の『松下村塾記』は、それをよく物語っている。
 歴史的な小さな怨念を超えて、幕末の国際情勢下における日本はいかにあるべきか、ということがすべての発想の根源だ。いまでいうグローカリズムの実現である。吉田松陰にはそういう高いまなざしがあった。
 門人たちも、そのまなざしに感動し、それぞれの道を辿っていったのである。

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武具馬具師 アメリカ様とそっといい

いにしえの蒙古の時とあべ(阿部)こべで
波風たてぬ伊勢(阿部の官名伊勢守にひっかけた)の神風

当時の庶民

▼ この名言の解説
 老中阿部伊勢守正弘の政策は、庶民までも言論の自由を保障した。そのため、思い切った批判も加えられた。
 ここに掲げた二つの句と歌はそれを如実に物語っている。武士の作品よりもはるかに風刺が効いている。
“国難来たる”のもとに、武士たちは急遽武具を蔵から出したり、あるいはすでに売り払っていたものは新調した。そのために武具師や馬具師がにわかに景気がよくなった。そこで突然こんな好況をもたらしてくれたアメリカ様に陰でお礼を言ったという皮肉だ。
 もうひとつの歌は鎌倉時代のモンゴル(蒙古)来襲のときは、いわゆる“神風”が吹いてモンゴル船を沈没させた。ところが今度は、総責任者の阿部伊勢守正弘は温和に開国してしまった。だから“波風もたてない伊勢の神風”とからかわれたのである。
 いつの世の中でも世情をクールに見る庶民の神経は健全だ。

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虫よ虫よ 五ふし草の根を絶つな
絶たば共におのれも枯れなん

西郷隆盛の座右銘

▼ この名言の解説
 西郷隆盛は島津斉彬によって発見された人物だ。
 若いころは郡奉行所の書記を務めていた。しかし先輩たちが農民をいじめて賄賂を取り、賄賂を納めない農民の税を高くしていたので始終腹を立てていた。
 上役である郡奉行にこのことを告発すると、郡奉行は気弱な笑みを浮かべて、「この汚職は構造的なもので、この奉行所だけではない。わし一人の力ではどうにもできない」と泣き言を言い、しかし責任を取って辞任してしまった。
 このとき正義感を発揮する西郷に一首の歌を残した。それが冒頭の“虫よ虫よ”の歌だ。
 西郷はこの歌を生涯大事にし、どんなときにも農民に同情する姿勢を保った。「虫」というのは賄賂を取る役人のことであり、「五ふし草」というのは稲のことだ。稲に寄生した汚職役人が稲の根まで食い尽くしたら、結局は自分たちも死んでしまうぞという警告の意味がある。
 西郷の行動の原点はこの歌にある。彼はいつもこの歌を紙に書いて机の前に貼っていた。そして心が緩むときは必ず「虫よ虫よ」とつぶやいて自分を励ました。西郷が徳川幕府を倒し明治維新を実現する強力な力になる原点はここにある。
 そして、その原点はさらに主人だった島津斉彬の「天下の政治を一変しなければ外国との交渉もできない」という一言にあった。
 つまり藩の改革を日本の改革に発展させ、日本人の心をひとつにまとめなければ無理難題を吹っかける外国列強に対応することはできない、と判断したのである。
 いまの徳川幕府には到底そんな力はないと断定した。

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天下の政治を一変しなければ外国との交渉もできない

島津斉彬

▼ この名言の解説
 島津斉彬は幕末の薩摩藩主で、“名君”といわれた。外様大名でありながら開明的な思想を持っていたので、幕府老中の阿部正弘が注目した。
 正弘はすでに、いままでのような幕府体制では外圧に対応する事ができないと判断していたので、この際、外様大名も入閣させて保革連合政権をつくろうと考えた。そして真っ先にその入閣候補者として考えたのが島津斉彬であった。
 島津家は関が原の合戦以来、徳川幕府に冷や飯を食わされてきたので、いつかはこの屈辱を拭いたいと思っていた。
 しかしそれは合戦によるのではなく、幕府中枢に参画して自分たちの考える志を国政に生かしたいと願っていた。
 斉彬はそのために藩力を充実する事が大事だと思い、鹿児島にヨーロッパ風の近代的な諸工場を造った。そして藩民を雇用した。藩政改革を積極的に行い、人材も登用した。西郷隆盛は斉彬の発見した逸材だ。
 斉彬は越前藩主・松平慶永(春嶽)、土佐藩主・山内豊信(容堂)、伊予宇和島藩主・伊達宗城などと共に阿部正弘の下に新しい政治体制をつくる寸前までいったが、惜しくも安政五(一八五八)年の夏に、近代化した薩摩藩兵を訓練中に急死した。そのため一時期は毒殺説も流れた。

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天地正大の気 粋然として神州に鍾《あつ》まる

藤田東湖

▼ この名言の解説
 藤田東湖は烈公といわれた水戸藩主・徳川斉昭のブレーンだった。学者だが、先祖は古着屋だったという。しかし熱烈な愛国思想を持っていたので、多くの人々に影響を与えた。
 老中筆頭・阿部正弘の開国政策に反発する者が出現した。いわゆる攘夷論者である。その“攘夷の大本山”といわれたのが水戸藩だった。先頭に立っていたのは藩主の斉昭だが、支えていたのが藤田東湖である。
 冒頭の言葉は東湖が作った「正気歌」の書き出しだ。同時に東湖は「回天詩史」という詩を書き、その冒頭で「三たび死を決して 而も死せず」と言い放った。
「正気歌」は日本が神州であり、世界に類例のない国だから、外国人に 汚させてはならないという思想だ。これが爆発的な人気を呼び、日本中の若い志士たちが「正気歌」と「回天詩史」を暗誦した。
 東湖の影響によって志士も詩士や死士というタイプを生む。彼から影響を受けたのは必ずしも志士だけではなく、幕臣も多かった。
 前に書いた松代藩主真田幸貫やその家臣佐久間象山、吉田松陰、梅田 雲浜、さらに幕臣の川路聖謨・岩瀬忠震・矢部定謙、あるいは佐賀藩主だった鍋島直正(閑叟)や思想家横井小楠などもしばしば東湖に会い、その論を聞いている。
 しかし東湖は安政二(一八五五)年の関東地方大地震で、惜しくも圧死する。

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たとえ周りから非難されても本当の意見を言ってほしい

阿部正弘

▼ この名言の解説
 ペリーがアメリカ大統領の国書を持ってきたとき、これに対応した日本の政府代表者が阿部正弘だ。阿部正弘は備後(広島県)福山藩主で、当時、老中筆頭(総理大臣)のポストにあった。
 正弘は非常に開明的な人物で、ペリーの来航で、これ以上鎖国は続けられないと判断した。そこでペリーが持ってきたフィルモア大統領の国書を和訳し、大名やその家臣、そして一般の学識経験者たちにばら撒いた。
「幕府始まって以来の国難である。それぞれ忌諱に触れても銘々の心底(本心)を残らず告げてほしい」
 と告げた。いまでいえば情報公開だ。同時に、国民の国政参加を求めたといえる。
 ソ連が崩壊する直前にゴルバチョフが行ったペレストロイカとグラスノスチを、阿部はこの段階で行ったといっていい。わずか二十五歳で老中(閣僚)になった逸材だ。
 しかし阿部のこの思い切った対応は日本国内に大混乱を巻き起こした。それまで抑圧されていた言論の自由が図られ、果ては「次の将軍を誰にするか」という問題にまで発展した。
 当然、反発する勢力が出る。それが江戸城溜之間詰代表で彦根藩主の井伊直弼であった。
 井伊は「阿部のやり方は徳川幕府の基盤を揺るがす。幕府を滅ぼしかねない危険な対応だ」と息巻いた。
 これが日本を真っ二つに割り、大きな政治闘争となる。阿部によって言論の道を開かれた“志士”という特別な存在が出現する。

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時勢に応じて自分を変革しろ

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 坂本竜馬は土佐の郷士商人の家に生まれたが、若いときから日本全体のことに関心を持っていた。
 しかしはじめからそんな開明的な考えを持っていたわけではない。青少年時代は剣術に夢中で江戸の道場で学んだ。やがて勝海舟に会い、世界情勢に眼を開かされた。
 やがて、彼は自由集団海援隊を作る。その規約で「自由人は海援隊に入れ」と告げている。そして貿易事業を行い、隊員の給与はすべて平等にこの利益から分配した。
 彼に有名な自己変革のエピソードがある。最初、友人が竜馬に「いまおれたちに必要なのはなんだろう」と聞くと、竜馬は刀の柄を叩いて「これだ」と言った。
 しばらく経って友人がまた竜馬に「いまのおれたちに必要なものはなんだ」と聞くと、竜馬は懐からピストルを出して「これだ」と言った。
 三度目に友人がまた同じことを聞くと、竜馬は懐から法律書を出して「これだ」と告げた。これだといった法律書は『万国公法(国際法)』である。
 最初刀の柄を叩いたのは、武士にならなければ何もできないということだ。ピストルを見せたのは、刀は外国の武器に負けるということだ。そして三番目の国際法は「今後あらゆる紛争は法律に基づいて、同じテーブルに着いて話し合わなければならない」ということである。この竜馬の開明的な思想が「大政奉還」の案を育てる。
 徳川幕府は平和裏に政権を朝廷に返上するが、これに飽き足らない西南雄藩が戦争を起す。その直前に、竜馬は京都で殺されてしまう。
 竜馬の海援隊精神と事業は、同じ土佐出身の岩崎弥太郎が引き継ぐ。

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世間は生きている 理屈は死んでいる

勝 海舟

▼ この名言の解説
 勝海舟は徳川家の身分の低い家に生まれた。若い頃からオランダ学を懸命に学んだ。彼が古本屋でオランダ書の立ち読みをしたり、あるいはオランダ語の辞典を持っている人の家に通って夜も寝ないで書き写した話は有名だ。
 海舟は佐久間象山の弟子だ。しかし妹が象山の妻になったので、師の義兄にあたるという妙な関係になっていた。
 象山は海舟を高く評価し、自分の書斎に掲げていた「海舟書屋」という額を贈った。したがって海舟というのは、もともとは象山の号だった。海舟はそれを自分の号にした。
 しかし海舟は象山が苦手だったらしい。「象山は何でもおれがおれがと自己を売り込むところがあった」と言っている。しかしその海舟も相当に「おれがおれが」の姿勢が強い。
 海舟に限らず幕末の日本の知識人はすべてオランダ語を学んだが、やがて海舟はこれが国際語でないことを知った。国際語はすでに英語にかわっていた。
 日本の使節がワシントンへ条約批准に赴いたときに、海舟は別コースで日本の船で太平洋を横断する。しかしアメリカに行くのには英語が必要だ。そこで通訳を雇った。一人がジョン中浜万次郎、もう一人が福沢諭吉である。
 万次郎はすでにアメリカに漂流し英語を身につけていた。福沢諭吉は大坂のオランダ学塾で学んだが、実際に横浜に来てオランダ語が役に立たないことを知り、急遽英語に切り替えた人物だ。
 こういう状況を見ていておそらく負け惜しみの強い勝海舟も「世間は生きている、理屈は死んでいる」と痛感したのに違いない。
 だからその後の彼の政治活動は、すべて「現実対応」の実践論に変わってゆく。無血江戸開城もそのひとつである。

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世界には道のある国とない国がある

横井小楠

▼ この名言の解説
 横井小楠は肥後熊本(熊本県)細川家の藩士だった。学問で仕えていた。
 しかし、朱子学者ではあったが、開明的な思想を持ち、常に「いまの日本はどうあるべきか、幕府はどうあるべきか、そしてわが熊本藩はどうあるべきか」と段階的に考えていた。国際情勢に対する情報を求め、自分なりの考えを示した。
 冒頭の言葉は小楠の「日本の外交方針」と題した意見書の一部だ。小楠のいう「道のある国」というのは王道(仁と徳)政治を行う国であり、「道のない国」は覇道(権謀)政治を行う国だ。このモノサシをあてると、イギリスもアメリカも道のない国になる。
 イギリスはアヘン戦争を起こして中国を苦しめた。アメリカはペリーを日本に派遣して、日本の国法に従わない恐喝交渉を行った。共に道のない国だ。
 したがって小楠は「道のない国と結んだ条約は破棄してもよい。それで戦争になり、たとえ敗れたとしても世界の世論が支持してくれるだろう」といまの国連思想のような意見を述べた。
 しかしそのユニークな思想は熊本藩の容れるところとはならず、小楠はむしろ越前(福井県)藩の松平家で重用された。
 明治維新後、小楠は新政府に登用されるが、その開国思想のゆえに京都で暗殺されてしまう。しかしその影響を受けた人間は多く、代表的なのは勝海舟や坂本竜馬である。
 勝は「小楠先生の思想をもし西郷隆盛が実行したら日本はえらいことになる」と予見していた。
 事実はそのとおりになり、日本は大変なことになったのである。

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米百俵は教育費にあてよう

小林虎三郎

▼ この名言の解説
 佐久間象山には沢山の門人がいた。吉田松陰のほかに、越後(新潟県)長岡藩牧野家の家臣が二人入門していた。小林虎三郎と河井継之助である。
 河井継之助はかなり鼻っ柱の強い人物で、師の佐久間象山が何かにつけて「おれがおれが」と自分を誇るのに腹を立てていた。やがて飛び出してしまう。
 しかし小林虎三郎は最後まで象山についてオランダ学を学んだ。象山は虎三郎のそういう態度を愛し、吉田松陰と共に“門下の二虎”と呼んだ。松陰の本名が寅次郎だったからである。
 のちのことだが、明治維新が成立した後の戊辰戦争のときに、長岡藩は政府軍にかなり痛めつけられた。それは河井継之助が武装中立を叫んで、談判決裂後抵抗戦を挑み、一時は政府軍を破った事があるからだ。政府軍は河井憎しの念に燃えた。
 小林虎三郎は和睦を申し込んだ。しかしその後の長岡藩の暮らしは、武士も一般市民もあげて酷かった。
 見かねた分家が米百俵を送ってきた。多くの飢えた人々が米を分けろと迫ったが、小林虎三郎はこれを敢然と退けた。
「われわれが子供たちに残せるのは、よい教育以外ない。子供たちがこの藩を再建してくれるだろう」
 と言って百俵の米を売り払い、それを全部子供たちの教育費にあてた。
 後年、山本有三という作家が『米百俵』という戯曲を書いて虎三郎のことをPRした。しかし、河井継之助ほどには有名ではない。
 太平洋戦争末期に、新潟地方は米軍の激しい空襲を受けた。県民の中には、「明治以後、新潟地方の基盤整備が遅れたのは河井継之助のせいであり、またこの激しい空襲は山本五十六のせいだ」という人もいた。
 歴史上の人物の評価は、やはりむずかしい。年月が経たないと本当の業績はわからない。とくに教育という、年月がかかり、根気が要る仕事は簡単には評価できない。
 その意味で小林虎三郎はやはり苦境の中にあって、じっと歯を食いしばり次代のことを考えていた偉人だといっていい。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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