NPO法人武士道協会

これまでの名言集

薩摩藩は一国取り堅《かた》めました

横井小楠

▼ この名言の解説
 幕末の開明的な学者横井小楠が、薩摩藩の状況を見て感じたことをアメリカに留学している二人の甥に書いた手紙の一節だ。日付は慶応二(一八六六)年十二月七日である。
「薩州は自国取り堅め国論一定いたし、いよいよ以て富国強兵に取り懸り、西洋器械も大抵取り寄せ、洋人も四五輩呼び寄せ、操練等甚盛大に相成候。家中若者共は、大抵洋服截髪いたし候」
 幕末の各藩(大名家)は藩論が真っ二つに分かれていた。尊王攘夷か佐幕開国かである。しかし薩摩藩はこのころ完全に尊王攘夷に藩論を一致させ、そのために必要な軍備を次々と拡張していた。慶応二年現在で小楠の見たところ、薩摩藩兵は和服を洋服に切り替えていたという。
 ここに書かれているように外国人の指導によって、おそらく使う武器もどんどん西洋化されていたのだろう。すでに心は幕府を離れ、逆に「討幕」の意志を強化していた。

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外国人に石を投げるのなら、わたしにも投げろ!

島津斉彬

▼ この名言の解説
 島津斉彬は開明的な薩摩藩主だ。長崎伝習所にいた勝海舟が練習船に乗ってやってきたときに港まで迎えに出て、城でいろいろと話を聴いた。
 またアメリカから帰国したジョン中浜万次郎を城に招いてアメリカ事情を聞いたのも斉彬だ。
 その斉彬があるとき、長崎からオランダ人を招いて外国事情を聴こうとした。
 鹿児島の人々はまだ考えが古い。通過するオランダ人に石を投げはじめた。このとき斉彬は馬に乗ってオランダ人を途中まで迎えに来た。が、この光景に遭うと馬の上から叫んだ。
「外国人に石を投げるのなら、わたしにも投げろ!」
 殿様がいきなりそんなことを怒鳴ったので、鹿児島の人々はびっくりした。互いに顔を見合わせたが、やがてうなだれて石を投げるのをやめた。オランダ人は感激した。こういうように島津斉彬は根っからの開国論者であった。
 かれは島津家の別邸磯庭園(仙巌園)を工業都市化した。近代的な工場を沢山造り、海軍力を強めた。そしてこの工場には、鹿児島の人々をどんどん雇用した。伝えられるところによると、毎日二千人から三千人の人が仕事を得たという。
 次の将軍に一橋慶喜を推薦し、自身も外様大名でありながら幕閣に入閣して大いに力を振るう予定だったが、惜しいことに急死した。そのために一部では「斉彬公は毒殺された」といわれた。

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毎日見ること聴くことによって、彼らの考えはどんどん変わっていった

ポンペ

▼ この名言の解説
 安政二(一八五五)年七月二十九日に、幕府は長崎に海軍伝習所をつくった。日本海軍の近代化のためである。
 そのため、入学生は幕臣に限らなかった。各藩からの入学も認めた。幕臣では勝海舟が一期生として入学している。他に薩摩藩が十六人、肥後熊本藩が五人、筑前黒田藩が二十八人、長州毛利藩が十五人、肥前佐賀藩が四十七人、伊勢津藩が十二人、備後福山藩が四人、遠江掛川藩が一人という顔ぶれであった。薩摩藩の学生の中には後に大阪経済界を発展させた五代才助(友厚)が入っている。
 教授陣はほとんどがオランダの海軍士官だった。その中にオランダ海軍の軍医としてポンペが来日した。
 ポンペの担当科目は、物理学・化学・人体解剖学・組織学・生理学・病理学・内科学・薬理学・理化学理論および外科手術学・眼科学そして法医学と医事政策を講義した。
 ポンペは、「毎日聴くこと見ること悉くが徐々に彼らの物の見方を変えさせていった。それで彼らはもし日本の独立と自主とを勝ち得たいならば、それには長い年月をかけて、多くの変革と改善を行わなければならないということを理解するようになった」と。
 ポンペは自分たちオランダ教授陣は日本に持ち込まれた“トロイの木馬”だと思っていたらしい。もちろん日本に変革を促すための木馬だ。
 その先手になるのが彼に学ぶ多くの学生だった。

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通貨の交換比率は金の含有量によって定めるべきです

小栗忠順

▼ この名言の解説
 通商条約批准のためにワシントンに行った日本使節の中で、監察を命ぜられた小栗忠順は日本から金の小判を何枚か持って行った。そしてワシントンに着くと関係役人に、アメリカの金貨を出させ、秤を借りて金の含有量を比較した。
 このとき忠順は含有量による交換比率が、非常にアメリカ側に有利であり日本に不利であることを指摘した。
 アメリカの役人は驚いて顔を見合わせた。「日本にも、こんな鋭い役人がいたのか」とびっくりしたのである。
 しかし「今回おいでになったのは、そういうことではなく条約の批准なので、またの機会にしましょう」とうまく言い逃れてしまった。小栗は不満だった。
 小栗の家は三河譜代の幕臣で、代々“又一”という通称を名乗っていた。家康の頃、小栗家の当主がしばしば一番槍をつとめたので、家康が「また一番槍か、これからは又一と名乗れ」と言ったからである。名誉の家柄だ。
 小栗は安政二(一八五五)年に家を継いだが、死ぬまでに実に幕府のポストを七十数度替わったという。辞任したこともある。
 幕末には、主戦論者で、あくまでも新政府軍と戦うことを進言した。しかし、すでに大政を奉還した最後の将軍徳川慶喜は小栗を嫌い、罷免して故郷に戻した。
 上野(群馬県)高崎市の一隅で農兵を訓練していた小栗は、新政府軍によって謀反の罪ありとして斬首された。
 彼のいた家の近くに詩碑が建っている。「偉人小栗上野介、罪無くてここに斬らる」という大きな字が石の上で躍っている。

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アメリカの議会はまるで日本の魚市場だ

村垣範正

▼ この名言の解説
 アメリカと結んだ通商条約批准のために、安政七(一八六〇、三月十八日に万延と改元)年一月に、幕府はアメリカ国と結んだ通商条約批准のための遣米使節を派遣した。
 正使・新見正興、副使・村垣範正、監察・小栗忠順を中心に、七十七名ほどの一行であった。
 アメリカに渡った使節団は、三月二十八日に大統領に謁見し、批准書の交換を四月三日に行うことになっていた。他にもフィラデルフィア市やニューヨーク市なども訪問した。
 このとき、一行はアメリカの議会を見学した。議場における議員たちの言行は、まるで、狂っているようで、互いに大声で罵り、手真似などもしきりにする。この騒々しさで、国事を論議し、各委員が自分の考えを吐き出し、やがて議長である副大統領が決定する。二階の桟敷には多くの男女が群集して耳をそばだてて聴いている。
 村垣はこの光景を見て、「議員はいずれも股引をはいていて、まるで日本橋の魚市場の様によく似ている」と感じた。
 しかし罵りあっている言葉は全くちんぷんかんぷんで理解できなかった。当時の日本ではオランダ語が盛んで、英語の学習がほとんど行われていなかったからである。

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到底土佐の国ではあだたぬ奴だ。放っておけ

武市半平太

▼ この名言の解説
 これは土佐勤皇党に加盟したものの、やはり藩秩序の重圧が依然として解けないので、ついに堪忍袋の緒を切った坂本竜馬が藩から飛び出した(脱藩)ときに盟友の武市半平太が呟いた言葉だ。
“あだたぬ”というのは、“包容しきれない”という意味の土佐の方言だそうだ。武市半平太も坂本竜馬の性格をよく見抜いていた。
 脱藩して江戸に出た竜馬は、前に修行したことのある千葉定吉の道場に入った。そして定吉の息子で剣友の千葉重太郎に、「これからは上下懸隔の弊(身分制)を壊し、言路をひらく事が必要だ」と語った。
 共鳴した千葉重太郎が、「まずそれには、行き過ぎた開国論者である勝海舟を斬ろう」と提案した。
 二人で勝のところに行った。勝は二人を見て、「わしを斬りに来たな。そのまま上がれ」といって座敷に通し、そこにあった地球儀を使いながら世界の情勢を懇々と説明した。
 二人は呆気にとられ、自分たちの不明さに気がついた。竜馬と重太郎はたちまち勝の門下生になることを誓った、というエピソードが残されている。
 しかし筆者は疑いを持っている。というのは、土佐にいたころ坂本竜馬はすでに河田小竜という変わった画家から、
「攘夷論など世界の情勢に遅れた考えだ」
 ということを教えられている。河田小竜の家には、アメリカ帰りのジョン中浜万次郎がいた。小竜にアメリカ事情をとことん報告していた。小竜はそれによって、
「日本は思い切って開国しなければだめだ」
 という考えを持ち、竜馬にもこのことを伝えた。
 したがって勝を訪ねた竜馬は単純な攘夷論者ではないはずだ。おそらく、開国による日本の国益を、専門家の勝に聞こうと思ったのだろう。

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大義(尊王攘夷の実現)のためにはお互いの藩が潰れてもかまわない

久坂玄瑞

▼ この名言の解説
 久坂玄瑞が土佐藩の郷士・武市半平太(土佐勤王党の党首)に出した手紙の一部だ。
 藩というのは「かこい・垣根」の意味がある。江戸時代の幕藩体制というのは中央集権政府である徳川幕府と、地方自治体である各藩(大名家)とで成立していた。しかしタテ社会であることは間違いない。久坂玄瑞はそれを、「ヨコにしよう」と提唱した。
 ヨコにするというのは国際という言葉があるように“藩際”の連合体を作ろうという呼びかけだ。日本の全藩がヨコにつながって一大連合をつくり、それによって大義を実現しようという壮大な案だ。これは明らかに“タテ社会”の否定であり“ヨコ社会”の創出を意味する。
 しかし、幕府首脳部が嫌ったのはこのヨコ社会化だ。大老の井伊直弼はこういう呼びかけを“処士横議(幕府の苦労も知らないで、勝手なことばかりほざいている輩のグループ)”と言って弾圧の対象にした。
 井伊直弼の考えでは、大体、横という字が付く熟語にろくな言葉はない。横議をはじめとして、横領・横着・横断・横車を押す・横恋慕などである。だから井伊たちは「ヨコになっている連中を、まっすぐタテに起こさなければならない」と必死になっていた。
 しかし久坂玄瑞の提唱はやがて形になって現れはじめる。つまり、最初は藩に迷惑をかけてはいけないと思って藩から飛び出る(脱藩する)ような志士も沢山いた。坂本竜馬などはそのいい例だ。
 やがて、このヨコとヨコの連合が、そういう自由なグループだけではなく、藩そのものが手を結ぶようになる。薩長連合や薩土連合などは完全なヨコ社会の実現である。
 そしてこういうヨコ社会をつくりだしたのもすべて藩の下級武士であり、あるいは農庶民だった。いってみれば“草の根”である。

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あいつの首を斬らなかったのは、あいつが心の底から日本帝国の平安を願い、そのために必死の努力をしたからだ

井伊直弼

▼ この名言の解説
 あいつというのは岩瀬忠震のことだ。井伊直弼が最も憎んだのが岩瀬忠震だ。それはかつて自分に対し、「あなたは大老としての能力がないのだから、引き受けるのをやめなさい」と直談判したことだけではない。幕臣の身で、次の将軍を一橋慶喜にしようとあちこちに語りかけ、積極的な政治工作を行っていたからである。
 井伊にすれば、「将軍を誰にするかというのは徳川家内部の問題だ。徳川家の相続人を決めれば、自動的に将軍になる。身分の低い幕臣たちが口を出すことではない」ということだ。したがって岩瀬忠震の行動は、仕事を離れてとんでもない政治活動に身を置いていると見えた。
 安政の大獄で、一橋慶喜擁立派は、幕臣であっても片っ端から処分された。しかし岩瀬はそのままだった。というのは井伊にすれば「対米交渉は岩瀬をおいて他にできるものがいない」と考えていたからである。
 そこで日米通商条約の調印が済むと同時に、井伊は岩瀬に蟄居の命令を出した。このとき次のような談話を発表している。
「岩瀬輩、軽賤の身をもって、柱石たる我々を閣き、ほしいままに将軍儲副の議を図る。その罪の悪むべき、大逆無道をもって論ずるに足れり。しかるを、身首所を異にする(首を斬る)に至らざるを得るは、彼、その日本国の平安を謀る、籌画図にあたり、鞠躬尽瘁の労、没すべからざるあるをもって、非常の寛典を与えられたるなり」
 本当は首を斬りたいのだが、日米交渉の努力は誰もが認めるところなので、命だけは助けた、という意味だ。
 井伊から見れば岩瀬忠震はどんなに能力があっても身分上は「吹けば飛ぶような軽い身分」だったのである。

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誰余所にとらすべきやは我国の
千島と君が教え仰ぎて

川路聖謨

▼ この名言の解説
 この歌は、対露交渉の責任者として長崎港に赴く全権大使川路聖謨に水戸前藩主徳川斉昭が贈った歌に対する返歌だ。斉昭の歌は、
我国の千島のはてはえぞしらぬ さりとてよそに君はとらすな
(日本国領土である千島のはてのことはよく知らない。だからといって絶対にロシアにとられてはならないぞ)
 という意味だ。だから川路聖謨は、
(絶対に千島をロシアに渡すことはありません。斉昭公のお教えを守ります)
 と応じたのである。歌は藤田東湖が届けた。同時に「主人からの贈り物です」といって薬も一緒に渡した。
 川路聖謨はかねてから藤田東湖と親交があり、その攘夷論の底に潜む愛国心に胸を打たれていた。
 川路も開明的な老中・阿部正弘によって登用された海防掛目付だから、決して頑固な攘夷論者ではない。しかし皇室に対する尊崇心が厚く、奈良奉行時代にも荒れ果てた天皇陵をいくつも修復している。“尊王開国論者”と言っていい。“頑民斎”と号した。
 のちに江戸開城の寸前、彼は日本で最初のピストル自殺を遂げる。
 彼はロシア大使プチャーチンと交渉した時、サハリン(樺太)は、どちらの国にも属さないという、世界でも珍しい帰属条約を結んだ。「住んでいるいろいろな国の人間が、どこかの国に属したいと言い出したときに改めて相談しよう」という内容であった。現在の国際紛争にも十分活用できる条約だ。底に、ヒューマニズムが流れているからだ。
 しかし、川路はあくまでも根っこは忠実な徳川武士であった。

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いま外国と和親もせず、戦争もしない独立国家など世界に一国もない

岩瀬忠震

▼ この名言の解説
 岩瀬は別項で書いたように積極的な開国論者だった。アメリカとの通商条約はほとんど彼が独断で調印したといっていい。
 彼には不安があった。それは、
「外国諸国は単独で存立しているわけではなく、必ず会盟(同盟)を結んで、共同歩調をとっている。これは、敵に対する防衛戦線だ。昔は単独国家同士が戦争をして、互いにその興亡を争ったが、いまはそんな時代ではない。むしろ“会盟の時代”と言っていい。日本国もそのことを知るべきだ。
 にもかかわらず、開国を迫る諸国に対し、いたずらに攘夷論などを唱えることはあまりにも世界の常識からかけ離れている。日本があくまでも鎖国の姿勢を守るなら、開国を迫るのはアメリカ一国でなく、アメリカに同調する世界の列強が次々と押し寄せて来るだろう。やがては、戦争になるかもしれない。
 日本は天孫降臨以来、万世一系の神国だ。これを守り抜くには、いま三百年の旧法を変じ、全国一同力を合わせ、外国との積極的な交際に踏み切るべきだ」
 これは、彼がほとんど独断で結んだアメリカとの通商条約を、大老井伊直弼が自身で朝廷に説明しに行かず、飛脚をもって報告したために、朝廷が大いに怒った時に書いたものだ。
 岩瀬は憂慮し、右のような嘆願書を朝廷に提出して、天皇の許可を求めようとした。しかしこのとき、天皇は許可しなかった。
 これがきっかけとなって、天皇の妹和宮の将軍家への降嫁という“公武合体策”がとられることになる。しかし、岩瀬は井伊によって重い罰を受け、蟄居させられてしまった。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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