NPO法人武士道協会

これまでの名言集

婚家を見捨てれば末代まで不義者といわれます

和宮

▼ この名言の解説
 公武合体のために、文字通り政略結婚をさせられた和宮は、第十四代将軍徳川家茂の妻になった。しかし同年の家茂とは、結構仲良く暮らすようになった。
 前代の将軍家定の妻天璋院がかなり苛めをしたらしい。しかし和宮はまめまめしく姑に仕えてソフトな対応をした。
 夫の家茂はやがて第二次長州征伐の総司令官となり、大坂城で指揮を執ることになった。しかし慶応二(一八六六)年、突然急死してしまった。
 和宮はこの時「土産には何がほしい?」と聞く夫に、「京の錦の布が欲しゅうございます」と応えた。
 しかし土産の錦の布が届けられたのは、夫の遺体と共にであった。この時和宮は
三つせ川世の柵のなかりせば 君もろともにわたらましものを
 と詠んだ。
 やがて徳川幕府は潰され、京都から、かつての許婚だった有栖川宮が総督となって江戸へやって来た。
 このとき和宮は必死になって徳川家の存続のために努力をする。有栖川宮をはじめ、手紙を送り続ける。
「家は亡び親族危窮を見捨存命候て末代迄も不義者と申され候ては」という文章が、慶応四(一八六八)年二月二十六日の手紙の一節にある。
 この努力が功を奏して、徳川家は駿府(静岡)で七十万石を与えられ、存続を認められた。
 和宮はそのまま東京に住み、明治十(一八七七)年九月二日に死ぬ。遺骸は生前の希望によって、夫の眠る東京都港区増上寺に埋葬された。

▲ この解説を閉じる

坂本先生、奉行所の役人が来ます!

お竜

▼ この名言の解説
 慶応二(一八六六)年一月二十三日の夜のことだ。前日に、竜馬は薩長同盟を結ばせていた。ほっとしたのだろう。定宿の伏見寺田屋で酒を飲んでいた。
 やがて妻になるお竜が、下の階で風呂に入っていた。窓から役人の襲撃を見た。そこでそのまま階段を駆け上がり、急を知らせた。竜馬はお竜が裸なのを見て、「なんだ、その格好は」と眉をしかめた。
 やがて襲ってきた伏見奉行所の捕吏たちと竜馬はピストルで戦った。やがて屋根伝いに逃げた。
 お竜は衣類を身につけるとすぐ伏見の薩摩屋敷に走った。そしてこのことを知らせた。薩摩側では指を切られた竜馬をすぐ匿った。
 ほとぼりが冷めると、西郷吉之助の世話で竜馬とお竜は新婚旅行に旅立った。薩摩では西郷の家で世話になった。
 竜馬とお竜は高千穂の峰に登り、頂上にあったアマノサカホコを、逆さにするという悪戯もしたらしい。
 竜馬が暗殺された後は、土佐(高知県)の竜馬の実家に行ったが、竜馬の姉の乙女とは気が合わずにすぐ飛び出した。
 晩年はどうも身持ちがよくなかったらしく、酒を飲んで酔っ払っては「わたしは坂本竜馬の妻だよ!」とわめき散らしたという。
 商人の西村松兵衛と再婚したが明治三十九(一九〇六)年に六十六歳で死んだ。

▲ この解説を閉じる

わたくしの夫は坂本竜馬です

千葉佐那

▼ この名言の解説
 幕末の江戸には“三大道場”と呼ばれる剣術の道場があった。斎藤弥九郎道場・桃井春蔵道場・千葉周作道場である。
 千葉道場には京橋桶町に分家の道場があった。主は定吉といって周作の弟だ。娘がいた。それが佐那だ。子供のときから剣術が強く、門人たちは道場主の定吉よりも佐那に稽古をつけられる事が多かった。
 入門者の中に土佐からやって来た坂本竜馬がいた。約五年この道場で学んだ。主として佐那からである。その間、二人の間に恋情が芽生えたらしい。
 が、政治活動に忙しい竜馬はやがて京都に行き、そっちに居ついてしまった。そして慶応三(一八六七)年十一月十五日に暗殺されてしまう。
 佐那はその後、甲州(山梨県)に行った。そして鍼・灸の術で生計を立てたという。一人暮らしを続けたが、詮索するものがいると静かに「わたしの夫は坂本竜馬です」と応えたという。
 明治二十九(一八九六)年に、甲府で寂しく死んだ。その墓には「坂本竜馬室(妻)」と彫られているという。
 こんな佐那に対して竜馬の方はどういう気持を持っていたのだろうか。推察に過ぎないが、竜馬も江戸暮らしをしているころは同じ思いを持っていたと思う。しかし照れ屋の竜馬は佐那が師の娘なので、あるいは所詮は高嶺の花だと感じていたかもしれない。
 しかし佐那の方は、「竜馬さんはわたしを愛している」という確かな手ごたえを感じて、それを生涯の支えとして生き抜いたのだろう。
 幕末に咲いた、美しい一輪の花である。

▲ この解説を閉じる

有事時の懸引《かけひき》(商売や交渉のテクニック)は必ず無事時の理財(資金運用)による

白石正一郎

▼ この名言の解説
 白石正一郎は、下関に拠点を置いた海の商人だ。高杉晋作・桂小五郎・西郷隆盛をはじめ、かれの世話になった討幕派の志士たちは夥しい。
 しかしかれはそのことをあまり世間に告げなかった。かれ自身「おれは知りすぎている」という自戒の念があったからである。
 高杉晋作が奇兵隊を創設したときには、かなり資金的な援助をしたようだ。終生、高杉を支持し続けた。
 もちろんかれも商人だから、日本中の志士が寄宿することは、母体である藩との取引を進める上で大いに便利だったに違いない。その辺はきちんと損得勘定をしている。
 しかしかれに私欲は全くなく、儲けた金は必ず志士たちの活動資金に提供した。だから、維新直前にはかれの財産は完全に失われ、逆に千両余りの負債を負っていたという。
 安政年間には、志士平野国臣の提言によって、薩摩藩の藍と長州藩の木綿・塩との交易を企てて成功した。
 薩長同盟は慶応年間に坂本竜馬の仲介によって成立するが、物による薩長同盟は、すでに白石正一郎の手によって実現していたといっていい。
 いがみ合う二つの組織が和合するのは、必ず物の交流からはじまり、文化の交流に到り、さらに人間の交流が始まる。政治的交流は最後の最後だ。その意味で白石正一郎の“先を見る眼”は非常に鋭かった。
 しかし維新後は、世話になった志士がかなり明治政府の高官になったが、白石正一郎に対する報い方が必ずしも十全であったとはいえない。
 が、かれはそんなことにはお構いなく「あいつはおれが世話した人間だ」などと吹聴することもなく、悠々と自適生活を送った。
 幕末の志士が活動した背景には、こういうパトロンが沢山いた。

▲ この解説を閉じる

男ならお槍かついでお中間《ちゅうげん》となって

萩の民謡

▼ この名言の解説
 攘夷実行の総本山である長州藩では、武士だけでなく農工商三民も奇兵隊などに参加した。そして男だけでなく女性も活躍した。
 萩城の脇にある菊ヶ浜に敵船を防ぐ防塁が築かれた。このとき、主として労働力になったのが女性たちだった。服装は筒袖襦袢《じゅばん》に小袴、そしてナギナタを持っていた。ナギナタを砂浜に立て、畚《もっこ》を担いで防塁づくりに勤んだ。
 このとき女性たちがうたったのがこの歌だ。
男ならお槍かついでお中間となって ついて行きたや下関
お国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻
まさかの時はしめだすき 神功皇后《じんぐうこうごう》さんの雄々しき姿が 鑑《かがみ》じゃないかいな
 余談だが、わたしはこの歌の正しい歌い方を知りたくて、随分萩方面を歩きまわった事がある。温泉場なら古い芸者が知っているかもしれないと思って、尋ね歩いた。
 湯田はじめかなり歩いたが、結局、長門温泉に正調“男なら”をうたうおばあさんがいると知って宿に招いて歌ってもらった。
 防塁をつくった女性たちがナギナタを持って行ったのは、おそらく四国の一領具足のように、いざ敵船が目の前に現れたときにはナギナタを持って、これを撃退する覚悟を決めていたからのようだ。
 しかしもともと女性は平和を愛する性格を持っている。戦争が好きな女性がいるわけがない。
 この歌を歌いながらも防塁づくりに勤しんだ女性たちは、みんな心の中では(敵船よ、来ないでほしい。来ても平和に日本と話し合ってほしい)と願っていたに違いない。

▲ この解説を閉じる

わが志は遊侠にあり、仕官にあらず

清水次郎長

▼ この名言の解説
 琴平の金毘羅宮を尊崇していた任侠の徒に清水次郎長がいる。幕末の侠客だ。自分が参詣できないので子分の森の石松を代参させたという話が残っている。
 石松は東海道を下り淀(京都市伏見区)から三十石船に乗って大坂湾に出、瀬戸内海を渡って丸亀の港に向かう。この途中で、いろいろな客とやりとりをしながら次郎長一家の子分のランク付けを話題にする。
 なかなか自分の名が出てこない。そこで「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」という有名なせりふのやりとりが大いに客を沸かせた。浪花節の名作だ。
 しかし史実によれば、森の石松がたしかに金毘羅宮にお参りをしたという事実が見つからない。が、現地には「石松代参のナニナニ」という史跡がいくつも残っている。
 討幕戦争で旧幕府軍と新政府軍が戦ったときに海戦も行われ、駿河湾に両軍の遺体が浮いた。
 清水次郎長は「敵味方の区別なく、全部引きあげて丁重に葬れ」と子分に命じた。このことが新政府に知れて、「仕官しないか」と誘われた。
 次郎長は「わたしは博打打なので、到底世間の模範になるようなことはできません」と言った後、冒頭の「志は遊侠にあるので仕官ではない」と言い切った。自分の選んだ道に徹する小気味よい言葉である。
 ほんとうなら、四国の日柳燕石と次郎長との間に交流があれば面白いのだが、やはり当時の交通事情ではそれは無理なようだ。
 次郎長は江戸最後の日に勝海舟にも呼ばれている。この時は新門辰五郎と一緒に、最初は江戸焦土作戦を立てる。そのとき江戸市民の救出の役割を果たす約束をしていた。
 が、勝のその後の判断によって焦土作戦は中止になる。平和開城が行われる。清水次郎長も心からそれを望んでいたのでほっとした。
 現在、静岡市(清水市は静岡市と合併して新市は政令指定都市になった)の清水区に次郎長の大きな墓が立っている。同時に彼の家も保存されている。

▲ この解説を閉じる

毎日象頭山を呑んでるよ

日柳燕石

▼ この名言の解説
 日柳燕石は四国の琴平(香川県琴平町)に住んで、金毘羅宮(金刀比羅宮)のすぐそばにいた。博打打だったので、“勤王博徒”と呼ばれた。勤王とつくのは、かれが頼山陽の『日本外史』を愛読し、勤王思想を持っていたからである。高杉晋作ほか随分世話になった志士がいる。
 金毘羅宮の「コンピラ」というのは、もともとはサンスクリット語の「クンピーラ」から来ている。クンピーラというのはインドでワニのことをいう。
 燕石は大酒呑みで、毎日大きな杯の中に目の前の象頭山が映ると、「よし、今日もこれを呑みほしてやる」といってグイグイ呑んだ。だから自分の住まいを“呑象楼”と名づけていた。燕石というのは、中国古代の地理書に出てくる故事で、燕山という山で採れる宝石はみんな偽物だったという由来から来ている。燕石自身がおれは偽物だという自虐趣味を持っていたのだろう。

▲ この解説を閉じる

どぶろくも酒と思えば酒の味

森田節斎

▼ この名言の解説
 森田節斎は、大和五条の学者で、生家は医者だった。しかし交友範囲が広く、頼山陽やその息子の三樹三郎、吉田松陰、藤沢東がい(注)、四国琴平の勤王博徒日柳燕石など変わった人々が多い。
 永く独身生活を続けたが、友人の藤沢東がい(注)から、「わたしの門人によい娘がいるから結婚しないか」と勧められた。
 相手は琴といった。ところが藤沢の門人たちにきくと「容貌が必ずしも美しくない」という。
 節斎はそんなことは構わないといって琴と文通をした。なかなかすばらしい文章を書く。しかし琴は、「琴という名は名乗っていますが、肝心なものが欠けておりますので無絃と号しております」と言ってきた。節斎は気に入った。二人は結婚した。節斎が四十四歳、琴は二十九歳だった。
 やがて五条で天誅組が代官所を襲う。このとき節斎は備中(岡山県)の倉敷にいた。しかし世間では、「天誅組の中には節斎先生の門人が二人いる。節斎先生が後から煽ったのではないか」と噂した。真偽はわからない。

▲ この解説を閉じる

公家はきめたことも実行しない

島津久光

▼ この名言の解説
 近代化した軍隊を率いて江戸城に押しかけ、幕政改革に干渉した島津久光は、しかし相変わらず無位無官の立場だった。久光を嫌う徳川幕府側では、かれを登用する気は全く無い。
 そこで久光は朝廷への関与を考えた。そのときかれは、「公家はきめたことも実行しないので、武家側が非常に迷惑している。国難の折、こんなことではどうにもならない。賢明な大名を朝議に参画させるべきだ」と言い出した。
 朝廷側はこのプレッシャーに負けて、「参予制度」をつくった。武家の代表を朝議に参画させるということである。
 一橋慶喜、京都守護職の松平容保・前越前藩主松平慶永(春嶽)・前土佐藩主山内豊信(容堂)・伊予宇和島藩主伊達宗城そして島津久光の六人が参予になった。
 朝廷側では「前例がない」といって相当抵抗したが、強引な久光に押し切られてしまった。こうして、なんの官位もない久光が、「朝廷参予」という輝かしいポストを得たのである。
 しかし考えようによっては、この参予制度は、任命された大名たちの徳川幕府に対抗する“新しい大名連合政権”といっていい。
 かつて死んだ老中阿部正弘が構想した“保革連合政権”が、違った形で京都に出現したのである。

▲ この解説を閉じる

いままでは下からの叡慮である

孝明天皇

▼ この名言の解説
 文久三(一八六三)年の八・一八政変のときに、孝明天皇は勅語を出した。
「いままでは下からの叡慮(天皇の考え)だったが、これからの叡慮がわたしの本当の考えである」
 いままで京都に集まっていた尊攘派の志士たちは、共通して「われわれの背後には長州藩がいる。そして長州藩の背後には帝がおられる」と信じてきた。御所内の過激派公家も同じだった。
 しかし天皇にすれば、すでに幕府の責任者第十四代将軍徳川家茂には、妹の和宮を降嫁させている。そしてその条件の一つとして「幕府の手で必ず攘夷を行う」ということを約束させ、期限を文久三年五月十日とした。
 だから幕府が攘夷を実行さえすれば、孝明天皇には幕府を討とうとか潰そうなどという考えは全く無い。
 それが、一部の志士たちによって次第にエスカレートし、天皇が大和に行幸したときは供奉する軍勢がそのまま討幕軍に切り替えられるということを聞いて、天皇は眉をひそめた。そこまで考えてはいなかったからである。妹が嫁いだ家茂を信じたい。
 考えてみると攘夷派がそこまで過激化していったのは、御所内の公家の中に自分たちの考えを帝のお考えだと言って伝えていた者がいたのではなかろうか、天皇はそう思った。そこで冒頭のような勅語が出されたのである。

▲ この解説を閉じる

書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
※この書籍はこちらからも購入できます→