NPO法人武士道協会

これまでの名言集

鎖国は地球諸国に対する大きな害です

渡邊崋山

▼ この名言の解説
 渡邊崋山は三河国田原(愛知県田原市)藩三宅家家老を務める武士だった。画家でもあった。しかし高野長英と同じオランダ学研究グループ“尚歯会”に属し、彼は彼なりに自分の考えを『慎機論』に書いた。それは、攘夷がいいとか悪いとかいう前に、現在の鎖国状況を解くべきだという趣旨である。それは、「モリソン号の例と同じように、諸国の船が大海を航海すれば、必ず燃料が足りなくなったり病人が出たりする。不足する食料を得たり、あるいは病人を上陸させて看病するためには、どうしても船の近くにある国が協力して入港させなければならない。これを拒むのは天道・人道に反することになる。一国完結主義(鎖国)は、地球上の諸外国にとって大きな害になる」というものであった。
 これも幕府を怒らせた。渡邊崋山も最後は自殺する。いまなら常識と言っていい正論を吐く知識人たちは、こうしてばたばたと自ら命を絶っていった。日本国にとってまさに“開国の陣痛期”と言っていい。

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外国船を打ち払うことで、日本は暴国・不義の国になります

高野長英

▼ この名言の解説
 高野長英は奥州(岩手県奥州市水沢区)出身のオランダ医学者だ。長崎に行って有名なシーボルトの門人になった。シーボルトから“ドクトル”の称号を与えられている。しかし、開明的な考えを持っていた。
 たまたま、イギリス船モリソン号が日本の漂流民を乗せて返還に来るという噂が入った。幕府は鎖国方針に基づいてこれを打ち払う(攘夷)決定をした。
 これに対し高野長英は、「もしも噂どおりイギリス船に日本の漂流民が乗っていて、これを返還するというのならそれは人道に基づく行為であって決して侵略につながるものではない」「にもかかわらず、モリソン号をいきなり打ち払えば、日本は理非もわからない暴国といわれ、義国の名を失う。まず、向こうの申し出を受けて漂流民を受け取ってから、その他の交渉に入るべきだ」という趣旨のことをその著『夢物語』に書いた。
 しかしこれが幕府を怒らせ、長英は追われてついに自殺する。

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真の開国政治家は岩瀬忠震ひとりだ

福地桜痴

▼ この名言の解説
 福地桜痴は、幕臣で、オランダ学者であると同時に二度も外遊して、外国事情を実際に見聞した。
 維新後はジャーナリストになり、『江湖新聞』や『東京日日新聞』を発刊した。しばしば新政府の弾圧に遭った。
『幕府衰亡論』『懐往事談』『幕末政治家』などの著書で、幕末の政治家たちを論評した。彼が幕臣で最も高く評価したのが、川路聖謨や岩瀬忠震である。岩瀬については、
「岩瀬肥後守(忠震)は昌平黌の出身で、一躍御目付にあげられ、重職中にて最も壮年の士なりき。識見卓絶して才機奇警、実に政治家たるの資格を備えたる人なり。
 阿部内閣のときには、いまだ十分にその技量を現すに至らざりけるが、堀田内閣のときに至り、米国全権ハルリス(ハリス)が下田に渡来し、和親貿易の条約締結を請求せしに際し、応接委員となりハルリスと折衝し、親しくその説くところを聴き、大に悟りてますますその開国説を主張し、ついに堀田閣老をしてハルリスを許して参府せしめ、将軍家に拝謁して国書を親呈せしめ、堀田と外交談伴に渉らしめたるは、主として岩瀬の力なりき」
 当時、因循姑息な幕府首脳部に対し、岩瀬だけは根っからの開国論者で、
「毫も鎖国攘夷の臭気を帯びざりしは岩瀬一人にして、堀田閣老をしてその所信を決断せしめたるも岩瀬にほかならざりしこと、事実に徴して明白なり」
 と褒めちぎっている。
 しかしあまりにも純粋な性格だったために、大老井伊直弼に嫌われて憤死したことは別項に書いた。

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土佐侯はご謀反を

藤田東湖

▼ この名言の解説
 生きていた頃の藤田東湖は、水戸藩の有名人というよりも日本的な有名人だった。だから、諸国から多くの人が東湖を訪ねてその意見を聞いた。山内容堂(豊信)もそのひとりだ。
 このとき容堂は、
「余(容堂)のような人間が、千古の大業を立てるには何をしたらよいかな」ときいた。
 これに対し東湖は、
「土佐侯はご謀反をお起しなさい」と応じた。容堂はびっくりした。
「謀反とは?」と聞き返すと東湖はこう答えた。
「上策は幕府に対する謀反以外ありません。本当なら、水戸藩がそれを行いたいのですが、何といってもわが藩は御三家の一つであって、宗家に弓を引くわけには参りません。勤皇の旗を京都に立てたいのですが、これは容易なことではございません。それが実現できるのは外様大名だけです。土佐侯、ぜひご奮発ください」とけしかけた。
 さすがに容堂も呆れて、
「藤田先生、また酔っての大言だな」と笑った。容堂はその席にいた者に他言無用を申し渡した。
 しかし後年になって容堂が言い出しっぺになる「大政奉還」はまさしく徳川幕府消滅のきっかけになるのだから、ある意味では東湖に勧められた“ご謀反”であることは間違いない。

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佐久間象山はほら吹きで困るよ

勝 海舟

▼ この名言の解説
 佐久間象山について勝海舟が言った言葉だ。正しくは、
「佐久間象山は物知りだったよ。学問も広いし、見識も多少持っていた。しかしどうもほら吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらせたらどうだろうか……。何とも保証はできないな。
 横井小楠と佐久間との人物はどうかといえば、大変な違いがある。横井という男はちょっと見たところではなんの変わった節もなく、その服装なども黒ちりめんの合わせ羽織に平袴をはいていて、大名のお留守居役とでもいうような風だった。人柄もひどく老成円熟していて、人と議論などするような野暮は決してやらなかった。
 佐久間の方はまるで反対で、顔つきからしてすでに一種奇妙なのに、平生、緞子の羽織に古代模様の袴をはいて、いかにもおれは天下の師だというように厳然と構え込んで、元来勝気の多い男だから、漢学者が来ると洋学をもって脅しつけ、洋学者が来ると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生が訪ねて来ても、じきに叱り飛ばすという風で、どうも始末にいけなかったよ」
 しかし若い頃の勝海舟は佐久間象山に入れ込んで、その教えをかなり受けた。しかも自分の妹順子を象山の妻にし、形の上では象山の義兄になった。
 先に書いたように象山が書斎に掲げていた「海舟書屋」という扁額までもらったのだから、この言い方は少し礼に失している。
 しかし、象山も「自分は日本のナポレオンだ」と豪語するような性格だったから、やはり「おれがおれが」の面があり、勝海舟とはまともにぶつかり合えば互いに「あいつは嫌いだ」ということになる。

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藤田東湖は若者を大勢集めては騒ぎまわっている。実にけしからん男だ

勝 海舟

▼ この名言の解説
 明治維新後、勝海舟は幕末時に交際したいろいろな人物について論評を加えている。これは藤田東湖に対して勝が言った言葉だ。正しくは、
「藤田東湖はおれは大嫌いだ。あれは学問もあるし、議論も強く、また剣術も達者で、一角役に立ちそうな男だったが、本当に国を思うという赤心(真心)がない。あの頃の水戸は天下の御三家なのだから、直接に幕府へ意見を言えばよいはずだ。それなのに東湖は書生を大勢集めて騒ぎまわるとは、実にけしからぬ男だ。おれはあんな流儀は大嫌いだ」
 という東湖評だ。
 勝海舟の維新後における発言は、かなり「おれがおれが」という色合いが濃い。まるで明治維新は自分ひとりで実現したような発言さえある。
 藤田東湖は、必ずしも勝のいうような人物ではない。やはり偉大な思想家だ。しかし東湖にも多少「おれがおれが」という性癖があったのだろう。これは人間としてプラス対プラスになるから、ぶつかり合うと火花が散る。したがって両方引かない。そんな人間関係がおそらく勝にこんな東湖評を口にさせたのだろう。
 日本人にはどうも「誰が言っているか」ということを重視し、「何を言っているか」という内容を無視する悪癖がある。すぐれた人間ほど、この癖が強い。
 したがって、勝も「東湖はいいことを言っている。しかし自分は東湖が嫌いだ。嫌いな人間はいくらいいことを言おうと、自分は信用しない」という、いまでもある日本人の悪い癖が出たのではなかろうか。
 この「何を言っているかではなく、誰が言っているか」という悪癖は、歴史が変わる大事な時期にかなり判断を誤らせている。

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藤田東湖はまるで山賊の親分だ

西郷隆盛(当時吉之助)

▼ この名言の解説
 開明的な薩摩藩主・島津斉彬は、若い西郷吉之助を腹心として使い、西郷自身の目を開かせた。
 それまでの西郷は斉彬の見るところ、“薩摩の一匹のカエル”だった。斉彬はそれを“日本の大きなカエル”に育てようとした。
 そのために、水戸藩の藤田東湖をも訪ねさせた。このとき、東湖と初対面であった西郷吉之助が、斉彬に「藤田東湖はどうだった?」と聞かれて「まるで山賊の親分のようでございました」と応えた。
 藤田東湖は西郷の純粋な精神を愛し、しばしば自分のところに呼んでは教えを垂れた。
「いまは、国中挙げて心をそろえ日本に無礼を働く列強外国に対さなければならない。それには、やはり主動者が必要だ。
 自分の見るところ国内での主動者はおぬしの主人・島津斉彬公以外ない。また、日本の国を統一するためには、主上(天皇)のご親政を仰ぐ事が肝要だ。
 この実現に斉彬公がご奮闘くだされば、天下の諸侯も必ずあとに従うに違いない。ぜひ、君も奮発して斉彬公をたすけてもらいたい」と告げた。
 したがって、西郷の最初に持った思想は東湖の影響による「尊王攘夷論」である。西郷は完全に“山賊の大親分”に惚れ込んでしまった。

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外国の侮りを受けながら交際するのは独立国家として衒気《げんき》を失っている

藤田東湖

▼ この名言の解説
 これは、弟子の佐久間象山が、「いま開国は天下の公道であって、これを拒むのは理屈に合わないことです」と言ったときに、師の藤田東湖が応じての発言だ。
 東湖は、逸る佐久間象山の意見を認めつつも、「だからといって、外国に侮辱されながら開国するというのは、独立国家として主権を失うようなものだ」と応じた。象山は怒って「あなたは保守的なガリガリ亡者だ」と罵った。
 カッとした東湖は「お前のような道理のわからない奴は破門だ」と言った。象山は傲然として、「こちらから先生を破門したいくらいです。失礼します」と言って東湖の家を出ようとした。
 すると東湖は玄関までついてきて、急に態度を和らげ「またおいでよ」と言った。象山は振り返った。「いま破門したばかりのわたしになぜそんなことをいうのですか」と食ってかかった。
 すると東湖は「いや、この次は戦場で会おうという意味だ」と東湖は冗談を言った。象山はじっと東湖をみつめていたが戻って来た。
 そして二人は本心から「開国を迫る列強外国に対応するにはどうしたらよいか」ということを話し合った。合意したのは、
  • 日本も外国に負けない大艦を造って、積極的に海外へ飛躍すべきだ
  • そのうえで、国力を充実し、やがては日本を恫喝する外国諸国を打ち払うべきだ
 という点であった。いってみれば藤田東湖も佐久間象山も「積極的な開国によって、攘夷を実現しよう」ということなのだ。
 が、象山はやはり「攘夷などやってはいけないことだ」と自説をゆがめなかった。この辺に東湖との差があった。

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あなたには大老としての能力がありません

岩瀬忠震

▼ この名言の解説
 これは、旗本の岩瀬忠震が、いよいよ大老に就任するという彦根藩主・井伊直弼に向かって言った言葉だ。全く「すごいこといやはる」という気がする。
 幕末は第二の戦国時代だということは本書の「はじめに」書いた。戦国時代の風潮は“下剋上”だ。
 いまも同じで、下剋上というのは「下位者や後輩が自分の上位者を選ぶ」ということだ。子供が親を選び、生徒が先生を選び、部下が上司を選ぶということである。いまもそういう現象がしきりに起こっている。
 岩瀬忠震は開明的な老中阿部正弘が登用した人物のひとりだ。阿部は新しく「海防掛」というセクションをつくり、ここに有能な幕臣を抜擢した。一様に「目付」という資格を与えた。目付は当時、幕府の中でも相当に権威を持っていたからである。
 つまり阿部にすれば「海防掛は、目付資格で大いに権威を持って自分の仕事に自信を持て。思い切ったことをやれ」と命じたのである。
 その中でもアメリカ担当として目を見張る活躍をしたのが岩瀬忠震だった。しかし岩瀬も阿部と同じように「次の将軍は一橋慶喜殿が相応しい」と考え、その工作を江戸城内で行う推進派だった。したがって、井伊にすれば好ましい存在ではない。
 その岩瀬が面と向かって「あなたには大老になる資格がない」と言い切ったのだから、井伊としては切れんばかりの怒りを覚えた。本当なら安政の大獄を展開した時に、岩瀬も一緒に処分したかった。
 しかし当時、アメリカとの間で通商条約調印の問題が待ち構えていた。これは岩瀬でないとだめだ。そこで井伊は調印が済んだ後、岩瀬を処罰した。永禁固という、ほかの幕臣が受けなかった重い罪である。
 岩瀬は江戸向島あたりに閉居し、ほとんど悶死同様に死んでいく。

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骨肉の愛情で国家を捨てられない

孝明天皇

▼ この名言の解説
 極度に険悪化した朝廷と幕府の関係を回復するために、幕府首脳部は将軍家茂の妻に孝明天皇の妹和宮親子内親王を迎えようという策を立てた。
 もちろん京都朝廷は反対した。しかし、公家の岩倉具視たちはここに現状打開の道を発見し、孝明天皇に意見具申して降嫁の条件として、幕府が必ず攘夷を実行することを求めることになった。
 和宮にはすでに有栖川宮熾仁という許婚がいた。和宮も東国を怖れ嫌がった。しかし兄の孝明天皇は和宮に「公武合体(一和)のためには、たのむ」と説得し、ついに納得させた。
 このことが決定した後、降嫁推進派であった岩倉具視たちに勅語を出した。その勅語の中に「骨肉の情において忍びざるところなり。然れども朕は骨肉の愛情をもって、国家を捨つることあたわず」と書いた。
 人間天皇として、妹を思う切々たる思いが伝わってくる。そして半分は推進派であった岩倉たちに「なぜ、妹をここまで苦しめなければならないのか」と詰問しているような節さえある。
 しかし、岩倉たちにすれば「もしも幕府が約束を守らなければ(攘夷を実行しなければ)、そのときは討幕の口実ができる」と考えていた。
 しかし関東に降嫁した和宮は、その後、同い年の家茂とは非常に仲良く暮らした。家茂はやがて第二次長州征伐の総司令官となり、大坂城で病死してしまう。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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