NPO法人武士道協会

これまでの名言集

いよう、征夷大将軍!

高杉晋作

▼ この名言の解説
 安政の大獄を展開した井伊直弼は、安政七(一八六〇、三月十八日に万延と改元)年三月三日に、江戸桜田門外において暗殺された。
 以後、攘夷派の勢いが盛り返し、その核は京都になった。朝廷を背景とする長州藩を柱に、多くの攘夷派志士たちの世論によって、ついに第十四代将軍徳川家茂は、攘夷期限を時の孝明天皇に奉答するために上洛した。
 将軍家茂は攘夷期限を文久三(一八六三)年五月十日と奉答し、天皇が先頭に立つ加茂社・石清水八幡宮などへの攘夷祈願参拝の供奉を命ぜられた。これには公家や諸大名も従った。
 この光景を見た高杉晋作は感動し、思わず「いよう、征夷大将軍!」と叫んだ。
 驚いた幕吏がバラバラと晋作の前に駆けつけ、名と藩名を名乗れと迫った。このとき高杉晋作は「長州藩士高杉晋作」と応じた。
 長州藩と聞くと幕吏たちは顔を見合わせ、怯んだ。晋作に「騒がぬように拝観せよ」といってすごすごと引きあげた。それほど当時の長州藩の勢威は京都で強かった。
 このころ攘夷派の志士たちは、天皇を先頭に推し立てて攘夷軍を結成するだけでなく、その勢いを借りて江戸城に攻め込み、徳川幕府を攻め滅ぼそうとさえ考えていた。
 しかし、これはあまりに性急な計画であって、では徳川幕府を滅ぼした後の新政権はどういう組織で何をするのか、ということがまだ決まっていなかった。そのために、先走ったこの計画は壊滅してしまった。佐幕派が巻き返しを行ったからである。

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身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留(め)置(か)まし大和魂

吉田松陰

▼ この名言の解説
 吉田松陰が江戸の刑場で首を斬られたのは、安政六(一八五九)年十月二十七日の朝だった。前日の二十六日に、彼は『留魂録』という一文を書いた。事実上の遺書である。その冒頭に掲げたのがこの歌だ。
 その後に、いままでの幕府役人の取調べ状況や、同じ牢屋に入っている志士たちの消息を細かく書いている。そして松陰自身の心境と自分の後に続く同志への要望事項が書かれている。
 同じものが二通書かれたといい、一通は高杉晋作・久坂玄瑞・久保清太郎の三人宛になっていた。そしてもう一通は同じ獄内の同志に渡された。
 三人宛のものは現存せず、同志宛に残されたものが、後に松下村塾に学んだ者の手に渡り、現在、山口県萩市の松陰神社内に保存されている。
 松陰の思想は中国古代の思想家孟子から大きな影響を受けている。とくに孟子の説く「誠(人間の誠意)」を最も重視した。
 だから松陰はいまのように日本国内に混乱が起こっているのも、主として天朝と幕府との間の誠意の交流がうまくいっていないからだと説く。そしてそういう状況の中で、自分の誠意も必ずしも関係方面に届いたとはいえないと反省する。
 こういう世の中を変えていくのは、蚊や虻のような小さな虫でもそれが群がり集まれば山をも覆い隠すようなもので、身分のある者や武士などではなく、草莽(草むら)のパワーがそれを成し遂げるのだ、と説いている。
 高杉晋作は師のこの説に則って、後に「奇兵隊」を創設する。

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吉田先生の首を幕府にとられたことは、長州藩にとって口にさえできぬような大きな恥です

高杉晋作

▼ この名言の解説
 井伊直弼が大老になってから展開した安政の大獄で、吉田松陰も江戸に召喚された。そして罪が確定し斬首の刑に遭った。
 このとき、入牢中の松陰に何くれとなく差し入れをしたり、励ましたりしたのが高杉晋作だ。が、松陰はついに首を斬られてしまった。
 晋作は泣いた。そして故郷の先輩・周布政之助に冒頭のような手紙を書いた。
 のちに、松陰の罪が許されると、晋作は真っ先に小塚原の回向院に駆けつけ、現在の東京都世田谷区にあった毛利家の所有地に丁寧に埋葬する。現在の松陰神社だ。
 このとき、遺体を桶に入れた晋作一行は、上野の広小路に架かった御留橋(将軍以外渡れない橋)を堂々と渡った。駆けつけた幕吏に対し晋作は、
「天皇のお赦しによって無実になった吉田松陰先生の遺体である。下がれ!」
 と大きな声で叱咤し、そのまま通過した。胸の中では「松陰先生の恨みを必ず晴らす」と誓っていた。
 これが私的な報復ではなく、徳川幕府そのものを倒すという大きな志に発展していく。
 晋作は自分の号を“東行”といった。西行法師を尊敬していたせいもあるが、東へ行くというのはおそらく「東方の江戸城を滅ぼす」という意味もあるのだろう。

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事を論ずる時、しばしば高杉晋作の意見を例に引いた

吉田松陰

▼ この名言の解説
 多彩な能力を持つ門人が群がっていた松下村塾でも、やはり高杉晋作が群を抜いていたらしい。
 あるとき、門人の誰かがすぐれた門人たちを風刺画にして描いた。この中で高杉晋作は“暴れ牛”にたとえられている。それほど晋作の能力はすばらしかった。
 しかし誰かが暴れ牛にたとえたように、そのまま放っておけば世の中を暴れまわり、ろくなことにならない。そこで松陰は知的で落ち着きのある久坂玄瑞と晋作をよく組み合わせた。
 これは晋作・久坂の例だけではなく、松陰はよく門人たちの能力を見極め「長所を伸ばし、短所を直す」という教育方針で、お互いに苦手とするような仲間同士を組み合わせて勉強させている。
 久坂玄瑞は才幹のすぐれた青年であり、高杉晋作は教養が深くまた見聞も広かった。松陰は両者を伸ばすのには、この二人の長所と短所を組み合わせると、二人ともさらに成長すると判断したのである。
 このころ桂小五郎が高杉晋作を見ていて、「このままだと将来、他人がその言葉を聞かなくなるおそれがある」という懸念の手紙を松陰に送っている。
 松陰はその通りだと思い、高杉晋作の能力を高く買いながらも、しかしそれを少し押さえ込まなければ、高杉本人のためにならないと判断した。
 しかし、高杉のいうことは常に正論で、また生気があった。そのため事例研究(ケーススタディ)を重んずる松下村塾においては、松陰はしばしば高杉晋作の意見を参考に、みんなに披露した。そうすれば門下生たちの受け止め方で、高杉の意見が正しいか正しくないかがはっきりするからである。
 そうなると、高杉もバカではないから、しばしば反省することも多かった。

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天下は天下の天下なり

吉田松陰

▼ この名言の解説
 松下村塾の教育方法は「現実に起こった社会問題をテキストとする」というもので、特定の教科書を用意しなかった。門人たちはそれぞれ自分が「これ」と思うテーマを選んで勉強した。
 松陰はそれに対し、「わたしも共に学ぶ学友だ」といって、決して先生とか師とか呼ばせなかった。
 松下村塾には、萩の城下町から来た三人の非行少年まで入門していたという。松陰はこういう連中に対しても「なぜ非行に走ったか」ということを相手の身になって考え、一緒に解決策を探した。
「天下は天下の天下だ」というのは、「徳川幕府の私物ではない」ということである。松陰はこの段階で日本国体論を唱え、「主権の存在」を「天朝(天皇)」にありとした。これが日本の国論を真っ二つにする尊王論の主張だ。そして、水戸学から影響を受けた攘夷論を加えた。「尊王攘夷論」の確立だ。
 だから「将軍は諸大名を率いて外国勢力を打ち払い、天皇の御心を安んじなければならない」というのが、松陰の思想の根底を流れている。
 しかし、こういう現体制を破壊するような行動はなかなか世間の容れるところとはならない。
 突破するために松陰はよく“猛”とか“狂”とかいう言葉を使った。つまり常識的なことをしていたのでは、とてもこの現状を打破することはできない。思い切った勇猛心や、場合によっては普通の人とは違った狂の熱情を持たなければだめだという主張だ。
 これは烈公といわれた水戸藩主の徳川斉昭が、よく“天狗”という言葉を使ったのと似ている。斉昭のいう天狗とは「常識を離れて、思い切った行動をする人間」の意味だ。松陰の“猛”や“狂”に似ている。
 だから門人の高杉晋作や山県有朋も好んで“狂”の字を自分の名前にしている。

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松下村塾から日本を変えよう

吉田松陰

▼ この名言の解説
 これは吉田松陰が、下田からのアメリカ艦密航に失敗して藩に戻され、藩の牢獄生活を送った後、その延長として「松下村塾」を開いたときの宣言だ。正しくは『松下村塾記』という。冒頭に掲げた一文は、そのエキスの意訳だ。
 松陰は佐久間象山の弟子だったから、象山が主張する「この国に住む人間は、まず地方人であり、つぎに日本人であり、さらに国際人だ」という意識を持っていた。だからこの「松下村塾から日本を変えよう」というのは、当然その間に「松下村塾からまず長州藩を変えよう」ということになる。
 松下村塾はそういう「長州藩を変え、さらに日本を変え、世界の模範となる」という変革者養成の場でもあった。
 松陰が叔父の開設していた松下村塾を引き継いだのは、安政四(一八五七)年二十八歳のときで、彼が安政の大獄で首を斬られるのが安政六(一八五九)年の十月二十七日のことだから、塾を開いていたのはわずか二年足らずに過ぎない。
 にもかかわらずその門下から高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、品川弥二郎、赤根武人などのいわゆる“討幕の志士群”を輩出したことは、日本の教育史上全く例がない。目を見張るばかりの人材育成である。それだけ松陰の至純な魂が、行く道は違っても門人たちに強烈なインパクトを与えたといっていい。
 桂小五郎(後の木戸孝允)は松下村塾の門下生ではなく、松陰とは友人格であった。しかし、松下村塾の門人たちとは付かず離れずの関係を保ち、維新実現の道程では、これらの門人群と密接な関係を保った。
 とくに高杉晋作や伊藤博文との間柄はかなり深い。よく長州藩と薩摩藩の討幕事業を「関が原合戦の報復だ」という説があるが、そんな私的な小さな理由ではない。松陰の『松下村塾記』は、それをよく物語っている。
 歴史的な小さな怨念を超えて、幕末の国際情勢下における日本はいかにあるべきか、ということがすべての発想の根源だ。いまでいうグローカリズムの実現である。吉田松陰にはそういう高いまなざしがあった。
 門人たちも、そのまなざしに感動し、それぞれの道を辿っていったのである。

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武具馬具師 アメリカ様とそっといい

いにしえの蒙古の時とあべ(阿部)こべで
波風たてぬ伊勢(阿部の官名伊勢守にひっかけた)の神風

当時の庶民

▼ この名言の解説
 老中阿部伊勢守正弘の政策は、庶民までも言論の自由を保障した。そのため、思い切った批判も加えられた。
 ここに掲げた二つの句と歌はそれを如実に物語っている。武士の作品よりもはるかに風刺が効いている。
“国難来たる”のもとに、武士たちは急遽武具を蔵から出したり、あるいはすでに売り払っていたものは新調した。そのために武具師や馬具師がにわかに景気がよくなった。そこで突然こんな好況をもたらしてくれたアメリカ様に陰でお礼を言ったという皮肉だ。
 もうひとつの歌は鎌倉時代のモンゴル(蒙古)来襲のときは、いわゆる“神風”が吹いてモンゴル船を沈没させた。ところが今度は、総責任者の阿部伊勢守正弘は温和に開国してしまった。だから“波風もたてない伊勢の神風”とからかわれたのである。
 いつの世の中でも世情をクールに見る庶民の神経は健全だ。

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虫よ虫よ 五ふし草の根を絶つな
絶たば共におのれも枯れなん

西郷隆盛の座右銘

▼ この名言の解説
 西郷隆盛は島津斉彬によって発見された人物だ。
 若いころは郡奉行所の書記を務めていた。しかし先輩たちが農民をいじめて賄賂を取り、賄賂を納めない農民の税を高くしていたので始終腹を立てていた。
 上役である郡奉行にこのことを告発すると、郡奉行は気弱な笑みを浮かべて、「この汚職は構造的なもので、この奉行所だけではない。わし一人の力ではどうにもできない」と泣き言を言い、しかし責任を取って辞任してしまった。
 このとき正義感を発揮する西郷に一首の歌を残した。それが冒頭の“虫よ虫よ”の歌だ。
 西郷はこの歌を生涯大事にし、どんなときにも農民に同情する姿勢を保った。「虫」というのは賄賂を取る役人のことであり、「五ふし草」というのは稲のことだ。稲に寄生した汚職役人が稲の根まで食い尽くしたら、結局は自分たちも死んでしまうぞという警告の意味がある。
 西郷の行動の原点はこの歌にある。彼はいつもこの歌を紙に書いて机の前に貼っていた。そして心が緩むときは必ず「虫よ虫よ」とつぶやいて自分を励ました。西郷が徳川幕府を倒し明治維新を実現する強力な力になる原点はここにある。
 そして、その原点はさらに主人だった島津斉彬の「天下の政治を一変しなければ外国との交渉もできない」という一言にあった。
 つまり藩の改革を日本の改革に発展させ、日本人の心をひとつにまとめなければ無理難題を吹っかける外国列強に対応することはできない、と判断したのである。
 いまの徳川幕府には到底そんな力はないと断定した。

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天下の政治を一変しなければ外国との交渉もできない

島津斉彬

▼ この名言の解説
 島津斉彬は幕末の薩摩藩主で、“名君”といわれた。外様大名でありながら開明的な思想を持っていたので、幕府老中の阿部正弘が注目した。
 正弘はすでに、いままでのような幕府体制では外圧に対応する事ができないと判断していたので、この際、外様大名も入閣させて保革連合政権をつくろうと考えた。そして真っ先にその入閣候補者として考えたのが島津斉彬であった。
 島津家は関が原の合戦以来、徳川幕府に冷や飯を食わされてきたので、いつかはこの屈辱を拭いたいと思っていた。
 しかしそれは合戦によるのではなく、幕府中枢に参画して自分たちの考える志を国政に生かしたいと願っていた。
 斉彬はそのために藩力を充実する事が大事だと思い、鹿児島にヨーロッパ風の近代的な諸工場を造った。そして藩民を雇用した。藩政改革を積極的に行い、人材も登用した。西郷隆盛は斉彬の発見した逸材だ。
 斉彬は越前藩主・松平慶永(春嶽)、土佐藩主・山内豊信(容堂)、伊予宇和島藩主・伊達宗城などと共に阿部正弘の下に新しい政治体制をつくる寸前までいったが、惜しくも安政五(一八五八)年の夏に、近代化した薩摩藩兵を訓練中に急死した。そのため一時期は毒殺説も流れた。

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天地正大の気 粋然として神州に鍾《あつ》まる

藤田東湖

▼ この名言の解説
 藤田東湖は烈公といわれた水戸藩主・徳川斉昭のブレーンだった。学者だが、先祖は古着屋だったという。しかし熱烈な愛国思想を持っていたので、多くの人々に影響を与えた。
 老中筆頭・阿部正弘の開国政策に反発する者が出現した。いわゆる攘夷論者である。その“攘夷の大本山”といわれたのが水戸藩だった。先頭に立っていたのは藩主の斉昭だが、支えていたのが藤田東湖である。
 冒頭の言葉は東湖が作った「正気歌」の書き出しだ。同時に東湖は「回天詩史」という詩を書き、その冒頭で「三たび死を決して 而も死せず」と言い放った。
「正気歌」は日本が神州であり、世界に類例のない国だから、外国人に 汚させてはならないという思想だ。これが爆発的な人気を呼び、日本中の若い志士たちが「正気歌」と「回天詩史」を暗誦した。
 東湖の影響によって志士も詩士や死士というタイプを生む。彼から影響を受けたのは必ずしも志士だけではなく、幕臣も多かった。
 前に書いた松代藩主真田幸貫やその家臣佐久間象山、吉田松陰、梅田 雲浜、さらに幕臣の川路聖謨・岩瀬忠震・矢部定謙、あるいは佐賀藩主だった鍋島直正(閑叟)や思想家横井小楠などもしばしば東湖に会い、その論を聞いている。
 しかし東湖は安政二(一八五五)年の関東地方大地震で、惜しくも圧死する。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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