NPO法人武士道協会

これまでの名言集

たとえ周りから非難されても本当の意見を言ってほしい

阿部正弘

▼ この名言の解説
 ペリーがアメリカ大統領の国書を持ってきたとき、これに対応した日本の政府代表者が阿部正弘だ。阿部正弘は備後(広島県)福山藩主で、当時、老中筆頭(総理大臣)のポストにあった。
 正弘は非常に開明的な人物で、ペリーの来航で、これ以上鎖国は続けられないと判断した。そこでペリーが持ってきたフィルモア大統領の国書を和訳し、大名やその家臣、そして一般の学識経験者たちにばら撒いた。
「幕府始まって以来の国難である。それぞれ忌諱に触れても銘々の心底(本心)を残らず告げてほしい」
 と告げた。いまでいえば情報公開だ。同時に、国民の国政参加を求めたといえる。
 ソ連が崩壊する直前にゴルバチョフが行ったペレストロイカとグラスノスチを、阿部はこの段階で行ったといっていい。わずか二十五歳で老中(閣僚)になった逸材だ。
 しかし阿部のこの思い切った対応は日本国内に大混乱を巻き起こした。それまで抑圧されていた言論の自由が図られ、果ては「次の将軍を誰にするか」という問題にまで発展した。
 当然、反発する勢力が出る。それが江戸城溜之間詰代表で彦根藩主の井伊直弼であった。
 井伊は「阿部のやり方は徳川幕府の基盤を揺るがす。幕府を滅ぼしかねない危険な対応だ」と息巻いた。
 これが日本を真っ二つに割り、大きな政治闘争となる。阿部によって言論の道を開かれた“志士”という特別な存在が出現する。

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時勢に応じて自分を変革しろ

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 坂本竜馬は土佐の郷士商人の家に生まれたが、若いときから日本全体のことに関心を持っていた。
 しかしはじめからそんな開明的な考えを持っていたわけではない。青少年時代は剣術に夢中で江戸の道場で学んだ。やがて勝海舟に会い、世界情勢に眼を開かされた。
 やがて、彼は自由集団海援隊を作る。その規約で「自由人は海援隊に入れ」と告げている。そして貿易事業を行い、隊員の給与はすべて平等にこの利益から分配した。
 彼に有名な自己変革のエピソードがある。最初、友人が竜馬に「いまおれたちに必要なのはなんだろう」と聞くと、竜馬は刀の柄を叩いて「これだ」と言った。
 しばらく経って友人がまた竜馬に「いまのおれたちに必要なものはなんだ」と聞くと、竜馬は懐からピストルを出して「これだ」と言った。
 三度目に友人がまた同じことを聞くと、竜馬は懐から法律書を出して「これだ」と告げた。これだといった法律書は『万国公法(国際法)』である。
 最初刀の柄を叩いたのは、武士にならなければ何もできないということだ。ピストルを見せたのは、刀は外国の武器に負けるということだ。そして三番目の国際法は「今後あらゆる紛争は法律に基づいて、同じテーブルに着いて話し合わなければならない」ということである。この竜馬の開明的な思想が「大政奉還」の案を育てる。
 徳川幕府は平和裏に政権を朝廷に返上するが、これに飽き足らない西南雄藩が戦争を起す。その直前に、竜馬は京都で殺されてしまう。
 竜馬の海援隊精神と事業は、同じ土佐出身の岩崎弥太郎が引き継ぐ。

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世間は生きている 理屈は死んでいる

勝 海舟

▼ この名言の解説
 勝海舟は徳川家の身分の低い家に生まれた。若い頃からオランダ学を懸命に学んだ。彼が古本屋でオランダ書の立ち読みをしたり、あるいはオランダ語の辞典を持っている人の家に通って夜も寝ないで書き写した話は有名だ。
 海舟は佐久間象山の弟子だ。しかし妹が象山の妻になったので、師の義兄にあたるという妙な関係になっていた。
 象山は海舟を高く評価し、自分の書斎に掲げていた「海舟書屋」という額を贈った。したがって海舟というのは、もともとは象山の号だった。海舟はそれを自分の号にした。
 しかし海舟は象山が苦手だったらしい。「象山は何でもおれがおれがと自己を売り込むところがあった」と言っている。しかしその海舟も相当に「おれがおれが」の姿勢が強い。
 海舟に限らず幕末の日本の知識人はすべてオランダ語を学んだが、やがて海舟はこれが国際語でないことを知った。国際語はすでに英語にかわっていた。
 日本の使節がワシントンへ条約批准に赴いたときに、海舟は別コースで日本の船で太平洋を横断する。しかしアメリカに行くのには英語が必要だ。そこで通訳を雇った。一人がジョン中浜万次郎、もう一人が福沢諭吉である。
 万次郎はすでにアメリカに漂流し英語を身につけていた。福沢諭吉は大坂のオランダ学塾で学んだが、実際に横浜に来てオランダ語が役に立たないことを知り、急遽英語に切り替えた人物だ。
 こういう状況を見ていておそらく負け惜しみの強い勝海舟も「世間は生きている、理屈は死んでいる」と痛感したのに違いない。
 だからその後の彼の政治活動は、すべて「現実対応」の実践論に変わってゆく。無血江戸開城もそのひとつである。

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世界には道のある国とない国がある

横井小楠

▼ この名言の解説
 横井小楠は肥後熊本(熊本県)細川家の藩士だった。学問で仕えていた。
 しかし、朱子学者ではあったが、開明的な思想を持ち、常に「いまの日本はどうあるべきか、幕府はどうあるべきか、そしてわが熊本藩はどうあるべきか」と段階的に考えていた。国際情勢に対する情報を求め、自分なりの考えを示した。
 冒頭の言葉は小楠の「日本の外交方針」と題した意見書の一部だ。小楠のいう「道のある国」というのは王道(仁と徳)政治を行う国であり、「道のない国」は覇道(権謀)政治を行う国だ。このモノサシをあてると、イギリスもアメリカも道のない国になる。
 イギリスはアヘン戦争を起こして中国を苦しめた。アメリカはペリーを日本に派遣して、日本の国法に従わない恐喝交渉を行った。共に道のない国だ。
 したがって小楠は「道のない国と結んだ条約は破棄してもよい。それで戦争になり、たとえ敗れたとしても世界の世論が支持してくれるだろう」といまの国連思想のような意見を述べた。
 しかしそのユニークな思想は熊本藩の容れるところとはならず、小楠はむしろ越前(福井県)藩の松平家で重用された。
 明治維新後、小楠は新政府に登用されるが、その開国思想のゆえに京都で暗殺されてしまう。しかしその影響を受けた人間は多く、代表的なのは勝海舟や坂本竜馬である。
 勝は「小楠先生の思想をもし西郷隆盛が実行したら日本はえらいことになる」と予見していた。
 事実はそのとおりになり、日本は大変なことになったのである。

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米百俵は教育費にあてよう

小林虎三郎

▼ この名言の解説
 佐久間象山には沢山の門人がいた。吉田松陰のほかに、越後(新潟県)長岡藩牧野家の家臣が二人入門していた。小林虎三郎と河井継之助である。
 河井継之助はかなり鼻っ柱の強い人物で、師の佐久間象山が何かにつけて「おれがおれが」と自分を誇るのに腹を立てていた。やがて飛び出してしまう。
 しかし小林虎三郎は最後まで象山についてオランダ学を学んだ。象山は虎三郎のそういう態度を愛し、吉田松陰と共に“門下の二虎”と呼んだ。松陰の本名が寅次郎だったからである。
 のちのことだが、明治維新が成立した後の戊辰戦争のときに、長岡藩は政府軍にかなり痛めつけられた。それは河井継之助が武装中立を叫んで、談判決裂後抵抗戦を挑み、一時は政府軍を破った事があるからだ。政府軍は河井憎しの念に燃えた。
 小林虎三郎は和睦を申し込んだ。しかしその後の長岡藩の暮らしは、武士も一般市民もあげて酷かった。
 見かねた分家が米百俵を送ってきた。多くの飢えた人々が米を分けろと迫ったが、小林虎三郎はこれを敢然と退けた。
「われわれが子供たちに残せるのは、よい教育以外ない。子供たちがこの藩を再建してくれるだろう」
 と言って百俵の米を売り払い、それを全部子供たちの教育費にあてた。
 後年、山本有三という作家が『米百俵』という戯曲を書いて虎三郎のことをPRした。しかし、河井継之助ほどには有名ではない。
 太平洋戦争末期に、新潟地方は米軍の激しい空襲を受けた。県民の中には、「明治以後、新潟地方の基盤整備が遅れたのは河井継之助のせいであり、またこの激しい空襲は山本五十六のせいだ」という人もいた。
 歴史上の人物の評価は、やはりむずかしい。年月が経たないと本当の業績はわからない。とくに教育という、年月がかかり、根気が要る仕事は簡単には評価できない。
 その意味で小林虎三郎はやはり苦境の中にあって、じっと歯を食いしばり次代のことを考えていた偉人だといっていい。

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わたしは二十歳以後藩の問題に関わりを持ち、三十歳以後日本国の問題に関わりを持ち、そして四十歳以後は世界の問題に関わりを持っていることを知った

佐久間象山

▼ この名言の解説
 この言葉は佐久間象山(一般にしょうざん、地元ではぞうざん)のものだ。佐久間象山は信州(長野県)松代(長野市)の藩士で、時の藩主真田幸貫に重用された。
 真田家は外様大名だったが、幸貫がかつての老中松平定信(八代将軍徳川吉宗の孫)の子供だったので、特別に老中(閣僚)に登用された。担当は海防である。
 幸貫はそのとき、かねてからオランダ学に造詣の深い象山をブレーンにして、国防策を立てさせた。
 象山は江戸にオランダ学の塾を開いていたが、実際には熱烈な朱子学者であった。だから彼の思想は「尊王開国論」というユニークなものだった。
 吉田松陰は象山の弟子である。だから松陰が「アメリカに行って、この眼でアメリカの国情をしっかりと見、聞いてきたい」と下田からの密航を企てたとき、「それは日本のために大いに意味がある。やりたまえ」と激励し、詩を贈った。
 松陰は密航に失敗した。そして持っていた荷物の中から象山の詩が発見された。幕府は「佐久間象山が師として弟子の松陰に密航をそそのかした」といって、象山を罰した。
 象山は故郷の松代に帰り、閉居した。この時に書いたのが『省けん録(注)』という本だ。「省けん」というのは「過ちを反省する」という意味だが、読む限り反省の色は全くない。むしろ開国を渋る幕府に対し痛烈な批判を浴びせている。彼は松陰の密航を良いことだと信じ、決して悪いとは思わなかった。
 その『省けん録』のお終いに冒頭の一文がある。いまでいえば“グローカリズム(国際的な視野を持って日本の問題、地方の問題を考える)”という事だ。
 しかし彼は熱烈な朱子学者であり尊王論者でもあったので、自分の政治思想を「和魂洋才(日本人の精神で外国の科学知識を採り入れる)」といっている。しかしユニークなその思想のために、幕末のある日、京都で暗殺されてしまう。

(注)けん――「侃」の下に「言」の文字

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▼ この名言の解説
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広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ

五箇条の誓文

▼ この名言の解説
 慶応四(一八六八)年三月十四日に、明治天皇が天地の神々に誓った「新国家の基本方針」の冒頭である。
 以下、「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行ウベシ・官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス・旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ・知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」と続く。
 しかしそれまでの徳川幕府の政治に慣れた日本人にすれば、目から鱗が落ちるような新鮮な国家運営方針だ。しかもそれを天皇が神々に誓って「必ずこれを実行する」と告げたのだから、大いに日本人に勇気と励ましを与えたに違いない。
 起草者は越前藩士由利公正(三岡八郎)だという。由利は横井小楠や坂本竜馬から多大な影響を受けた。三人で親しく酒を飲みあったこともある。
 したがって由利が書いたこの五箇条の誓文のルーツは、竜馬の「船中八策」の精神を濃厚に採り入れている。
 しかしこの精神は必ずしもパーフェクトには実現されなかった。自由な言論を政府は保障せずに、逆に弾圧を行うからである。いずれにしても、明治維新はこうしてはじまった。

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条約ハ大君(将軍)ノ名ヲ以テ結ブトイエドモ、以降朕《ちん》ガ名ニ換《か》ウベシ

明治天皇

▼ この名言の解説
 明治天皇が詔書を出して外国公使に告げたこの文章のはじめに「朕《ちん》ハ大日本天皇ニシテ同盟列藩ノ主タリ」と書き出している。つまりいままで大名の主は将軍だったが、これからは天皇になるという宣告だ。
「朕将軍ノ権ヲ朕ニ帰サンコトヲ許可シ、列藩会議ヲ興シ、汝ニ告グルコト左ノ如シ」と続けている。将軍が政権を自分に返したので、これを許可し、大名会議を興してその上に君臨するということだ。
 だからさらに「朕国政ヲ委任セル将軍職ヲ廃スルナリ」とはっきり将軍職がなくなったことも告げている。
 しかしこの段階では何度も「内外ノ事トモニ皆列藩ノ会議ヲ経テ」といっているのは、明らかに新政府が「大名会議」を頼りにしようという気持を持っていたからだ。
 しかしこれは一応通るべき手続きのひとつの段階であって、大名会議というのはそのまま「薩長を主とする藩閥会議」と読み替えても間違いはない。
 やがて大名家(藩)は廃止され、藩はそのまま中央政府の統括下に置かれる地方自治体にされてしまうからだ。

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外交権は依然として徳川政権にある

徳川慶喜

▼ この名言の解説
 王政復古の号令が出ても徳川慶喜はへこまなかった。かれは大坂城に外国の代表者を集めて、「条約を結んだのはわたしの政府なので、外交権は依然として徳川幕府にある」といった。
 おかしな宣言だ。幕府の権限を朝廷に返上してしまったのだから、その中には外交権も当然入る。しかし慶喜はそうは思わない。条約を結んだのは徳川幕府の名なのだから、その事実は生きているという考えだ。
 しかもかれは王政復古について、「一部の大名が幼主を挟み、叡慮に託し、私心を行い、万民を悩ますは見るに忍びず」とまで言っている。
 つまり王政復古というのは薩長の謀略によるものであって、全大名の意志ではない。全大名の心は依然として幕府にあるということだ。
 これは慶喜だけの考えではなかった。土佐の山内容堂も同じような考え方をした。だから慶応三(一八六七)年十二月九日に御所で会議が開かれたときも、容堂は、「なぜ徳川慶喜をこの席に呼ばないのか」と文句を言った。しかし短刀を懐にした西郷隆盛たちのプレッシャーに負けて容堂もついに黙り込んだ。
 しかし容堂的な考えをする大名や公家はかなりいたようだ。慶喜もおそらくそのことを知っていたから、外国の代表に対しこんなことまで告げたのだろう。しかし、所詮は未練であり、愚痴だ。また歴史の流れに逆行することばだ。
 その証拠に、慶喜が外国代表にこんな話をした三日後に、今度は明治天皇の詔書が出ている。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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