NPO法人武士道協会

これまでの名言集

夷人《いじん》の手を借り、長州をおさえるのは憎むべきことだ

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 幕府の長州征伐軍を内陸部で受けながら、長州藩はこのころ攘夷を実行したための報復として、四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)の連合艦隊の襲撃を受けた。馬関戦争である。
 江戸時代初期に天草・島原の乱が起こったとき、一揆は島原の原城に集結した。このとき討伐側の総大将だった老中松平信綱は、オランダ商館に交渉して「海上から原城を砲撃してもらいたい」と頼んだ。
 オランダの軍艦が島原半島近くまでやって来た。これを見た一揆は「卑怯だ」と叫んだ。
 それは一揆側だけでなく、攻撃側からも「外国の手を借りて一揆を討滅するのはやはり汚いやり方だ」と猛烈な非難が起こった。松平信綱はこの非難に負けてあきらめた。
 西郷隆盛のいうのも同じだ。というのは、四国連合艦隊が報復のために長州を攻撃するという通告を受けても、幕府は知らん顔をした。むしろ「どうぞ存分にやってください、長州は生意気ですから」というような風情を見せた。
 西郷はこれに腹を立てたのである。大久保利通への手紙に「夷人の手を借り長州をおさえ候始末、憎むべきの行に候」と書き送った。

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薩賊会奸

高杉晋作

▼ この名言の解説
 これは、禁門の変で長州軍を敗退させた薩摩藩と会津藩に対し、憎しみの言葉を表したものだ。薩賊会奸というのは薩摩藩を賊とみなし、会津藩を奸物とみなした言葉だ。
 高杉晋作は一方の下駄の下に薩賊と書き、もう一方に会奸と書いてこれを踏みつけて歩いた。踏みつけながら「薩賊会奸、薩賊会奸」と歌うようにいいながら鬱憤を晴らしていた。それほどこの頃の長州藩にとって、薩摩藩と会津藩は憎むべき敵であった。
 しかし薩摩藩の西郷隆盛は「禁闕(皇居)御守護こそ大名軍責務である」という考えを持っていたから、御所に突入した長州軍を撃退したものの、しかしその後の状況展開は別だという考えがある。つまり突入した長州軍は、敗北ということによって罰せられたという考えだろう。
 西郷は胸の中ですでに「やがては長州藩と手を結ばなければ日本の窮状は打破できない」と考えていた。当然、手を結んで行うのは「討幕」である。
 この考えを見抜き、接近してきたのが土佐の浪人志士坂本竜馬である。竜馬はすでに長崎に海援隊の前身ともいうべき亀山社中をつくっていた。これは一種の密輸機関だ。
 西郷はこれを利用する。西郷は沖永良部島ですでに「無駄な忠義はしない」と心を決めていた。無駄な忠義をしないというのは、藩主に対しても幕府に対しても大義名分の立たない忠義は行わない、ということである。
 しかし西郷のそこまで伸びていた思想を、この頃の高杉晋作は知らない。ひたむきに「薩摩憎し、会津憎し」と考えていた。だから下駄の裏に書いた「薩賊会奸」という四文字を踏みつけて鬱憤を晴らし続けたのである。

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長州征伐は長州藩と会津藩の私戦だ

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 禁門を犯した長州藩は勅命によって征伐されることになった。
 このとき勇敢に戦ったのが西郷隆盛の率いる薩摩軍だった。薩摩軍はすでに前藩主島津斉彬の時代から近代化され、武器も洋式のものだった。長州藩の武器は古い。到底かなわない。長州藩は薩摩藩によって敗退させられたといってもいい。
 ところがその薩摩藩の指揮を執った西郷隆盛は、幕府が長州征伐を行うということになり出兵を促したときに渋った。その理由が「今度の征伐は長州藩と会津藩との私の戦争だからだ」と告げた。
 やはり太平洋に面したところに領土を持つ薩摩藩の出身だけに、西郷の考え方は一歩前へ出ていた。いまでいえばグローカリズムが頭の中にあった。つまり世界の中の日本、日本の中の薩摩藩や長州藩、会津藩という考え方だ。
 そうなると逆に「国際情勢下における薩摩藩は何をすべきか、長州藩は何をすべきか、会津藩は何をすべきか」という論法を採る。
 この論法でいけば当然、「いま、列強のプレッシャーの強い日本国内において、日本人同士が殺し合うような戦争など起すべきでない」というのが常識になる。
 しかしこの際、なんとしてでも長州藩を潰してしまわなければ気が済まない幕府にすれば、やはり京都守護職を務める会津藩を先頭に突入したい。
 西郷にすれば「幕府は長州藩を叩いた後は薩摩藩を叩くに違いない」と思っている。したがってこの戦争への出兵は慎重だった。
 さらにこの頃の西郷は、「日本の大名軍は禁闕(皇居)御守護のほか行うべきではない」と考えていた。その禁闕に突入した長州軍を近代兵器で敗退させながらも、こういうことをいうのは、西郷の胸の中にはすでに長州藩の御所突入にも理由がある、と考えていたのだろうか。

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真の大割拠を実行する

高杉晋作

▼ この名言の解説
 京都の御所に突入した長州藩は朝敵とされ、幕府の征伐を受けることになった。
 高杉晋作はもともとこの進発には反対だった。このとき晋作は単に反対しただけではなく、当然、報復的な征伐を受けるときには「防(周防国)長(長門国)二州は、全藩士・人民が心を一致し団結して、真の大割拠を行わなければならない」と主張した。
 大割拠というのは中央権力から離れて独立するということだ。いまでいえば「地方自治の確立」である。
 地方自治の確立というのは、単に政策の上だけではない。また姿勢だけではだめだ。財政力をどうするかというのが一番の問題だ。
 現在の地方自治体が“三割自治”といわれるのは、自己財源が三〇パーセント(三割)しかないということである。そのため、中央権力である政府との関係が切れない。政府の方もまた地方を国庫補助金や地方交付税によって規制している。
 高杉晋作が考えたのはこういう財源の問題も含めて、一切を長州藩の独力でやり抜くという姿勢の表明だ。
 そして事実、長州藩はこれを実現した。独自な政策で地域内の産業を振興し、上方に機関を作ってこれと交流し、輸出・輸入の物流ルートを設定した。そのための役所も設けた。生産者を保護し、藩が直接乗り出してその販売網を確保した。
 いってみれば“武士は食わねど高楊枝”と嘯いていた武士群が、率先して商業を行ったのである。高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文・井上馨たちが刀を差しながら、大いに前垂れ精神を発揮して長州藩の製品を他国に売り捌いた。
 こういう、武士でいながら商業にも努力するという姿勢が、結果的には明治維新を生む。いわゆる“士魂商才”である。

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左右みな賢なりというか

島津久光

▼ この名言の解説
 これは島津久光が大嫌いだった西郷隆盛の評判がものすごくよいので、悔し紛れにいった言葉だ。「左右みな賢なりというか。しからば愚昧の久光ひとりこれを遮るは公論にあらず」と負け惜しみをいっている。
 しかしこれは言葉だけではなく当時の薩摩藩の世論として、島に流されていた西郷を早く戻して、藩のために働いてもらいたいという声が多かった。特に若者の間に西郷の人望が行き渡っている。
 島津久光が西郷を嫌う理由は、西郷の方も久光が嫌いだったからである。西郷は久光の兄斉彬の腹心だった。絶大な信頼を受けていた。そのため西郷の方も斉彬を恩人と考え、そのためには生命を捨てて活躍した。
 それに比べると久光は西郷から見れば凡庸に見えた。そこでズケズケと「あなたには斉彬様ほどの力はありません」と面と向って言った。
 久光はこれが悔しくて仕方がない。したがって久光にすれば、いまは藩主の父なので「西郷など絶対に用いない」と気持を定めていたところが藩論は必ずしもそうではない。早く西郷を戻さなければ薩摩藩が危機に陥るなどという極端な意見まである。
 久光はこれに屈した。そして、「周りのものはみんな西郷のことを賢く徳望のある人物だといっている。愚かな自分(久光)が反対するのはその世論にそむくことになる」といって西郷を召し返したのである。
 元治元(一八六四)年一月下旬に久光はこの言葉を口から出し、翌月二十八日に西郷は流されていた沖永良部島から戻って来た。
 このころの西郷は薩摩藩の西郷から、日本の西郷に大きく育っていた。同時に、その政治思想も「敬天愛人」の四文字に集約されるように、人格も磨き抜かれていた。西郷にとっても沖永良部島での囚人生活は決して無駄ではなかったのである。

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べらんめえ

アーネスト・サトウ

▼ この名言の解説
 アーネスト・サトウはイギリス人で、後にイギリスの駐日公使館員になる。
 十六歳の時にロンドンのユニバーシティ・カレッジの入学試験に合格し、二年間で全課程を修了するという秀才だった。
 そのころ日本に関する本が出て、これを読んだサトウは急激に日本熱を高めた。そこで通訳の試験に合格し、文久二(一八六二)年の九月に横浜港に着いた。
 まず遭遇したのが生麦事件だった。しかしかれはこの事件に怒るよりも、むしろ日本の“攘夷論”の原因を探った。そしてさらに討幕をめざす雄藩の援助をしようと思い至った。
 しかしそれにしても言葉の問題を解決しなければならない。かれは必死になって日本語を勉強した。持ち前の才能があったのでメキメキ上達した。
 冒頭の「べらんめえ」という江戸弁は、かれが日本語に堪能になった後、日本人と話していて思わず口走った俗語だという。
 イギリスの駐日公使は最初オールコックだったが、公使に、
「いまの日本における実質的な権力は将軍ではなく、力のある大名です」
 と告げたのもサトウである。つまりサトウの分析では将軍も一人の大名に過ぎないという受け止め方だった。
 幕府が倒れて新政府が出来た直後の明治二(一八六九)年にサトウはひとまず帰国したが、すぐ日本に戻って来た。
 そして明治十六(一八八三)年まで在日したが、やがてシャム(タイ)の公使などを経て明治二十八(一八九五)年に、今度は正式な駐日公使として日本に赴任してきた。
 日清戦争後、日本はロシア・フランス・ドイツから干渉を受けたが、イギリスは静観した。逆に、ロシアの対日政策を牽制した。後の日英同盟の元は、アーネスト・サトウによってこのころ築かれたといっていい。
 かれが滞日中に書いた『一外交官の見た明治維新』は現在も広く読まれている。維新成立の裏面史として欠くことのできない史料である。

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幕府はもうダメです

勝 海舟

▼ この名言の解説
 坂本竜馬に人物打診をさせた後、勝海舟は西郷吉之助(隆盛)に大坂で会った。元治元(一八六四)年九月十一日の夜のことである。
 このとき勝は幕府の実態を洗いざらい西郷に話した。そして「幕府はもうダメです。あなた方西南の雄藩が取って代わりなさい」と、とんでもないことをいった。
 そして幕府を消滅された後の新政府は「共和制」にすべきだと告げた。これは勝が咸臨丸でアメリカに行ったときに実体験して、つぶさに見たアメリカの政治体制に感動したからである。
 議会があり、政府の要職はすべて四年ごとに国民の入れ札(投票)によって行われている。立候補者は身分は一切問わないという民主主義に感動した。それに比べ日本は古すぎる。それが勝の大きな不満であった。
 しかしこの夜の勝の行動は、現在でいえば国家公務員、それも高級公務員の秘密漏洩だ。現在の公務員は退職後も、在職中に知りえた秘密を漏らすことはできないと規定されている。
 しかし勝は平気だった。かれには徳川幕府も藩も身分制も何もない。いや、何もないようにすべきだと考えていた。

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西郷さんは、得体の知れない太鼓です。大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 元治元(一八六四)年に起こった“池田屋事変”と“禁門の変”に、勝海舟が主宰する神戸海軍操練所の学生が二人参加していた。
 かねてから勝海舟に悪意を持っていた幕府首脳部は、それ見たことかと鬼の首でも取ったようになり、操練所の即時閉鎖、同時に勝の操練所主任兼海軍奉行罷免という行為に出た。
 勝は切れた。そこで幕府を見限り、「薩摩の西郷吉之助に幕府の実態をばらそう」と思い立った。
 まず弟子の坂本竜馬を西郷のところに差し向けた。西郷とはどういう人物かということを確かめさせたのであった。
 西郷に会った坂本は圧倒された。そして戻って来た。勝から、「西郷さんはどんな人物だった」と聞かれると、「西郷さんは得体が知れません。大きな太鼓のようです。大きく叩けば大きく叩き返し、小さく叩けば小さく叩き返します。歯が立ちません」と正直な感想を述べた。
 勝は満足した。(そういう人物こそ、自分が長年求めていた人なのだ)と感じたからである。

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士道忘却

横井小楠

▼ この名言の解説
 これは横井小楠が自分でいった言葉ではない。小楠に対し彼の属する肥後熊本藩の首脳部が与えた罪名である。小楠は「士道忘却のため、士籍を剥奪する」という罰を受けた。
 具体的には、かれが江戸の藩邸で友人と話しているときに、突然かれを開国論者と見た刺客が襲ってきた。
 ところが小楠は自宅に刀を忘れてきた。そこで刺客に、「いま刀を取ってくるから待っててくれ」といって自宅へ走った。刀を取って戻ってくると、友人は殺されていて刺客はすでに去っていた。待ちくたびれたのである。
 これが知れて小楠は、「おまえは士道を忘却している。武士にあるまじき振る舞いだ。したがって武士の資格を剥奪する」といわれ、熊本の郊外に閉居を命ぜられた。
 しかしこういうときに、思想家や学者は本来自分が書きたかったことを一冊の本にまとめる。小楠も同じだった。

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大義とは世界の世話焼きになることだ

横井小楠

▼ この名言の解説
 横井小楠は別なところで「世界には有道の国と無道の国があるから、日本は有道の国にならなければならない」と告げた。では有道の国とはどういう国かということを、この大義論で述べている。
 小楠は、「日本はこの際、仁義の大道を起こすべきだ。強国になることではない。強があれば必ず弱がある。この道を明らかにして世界の世話焼きにならなければならない。(弾丸)一発で一万も二万も戦死するというようなことは必ずやめさせなければならない。
 そこでわが日本は、インドのような植民地になるか、世界第一等の仁義の国になるか、とんとこのふた筋のうち、このほかには道はない」と言っている。
 これが混沌とした幕末の国際状況における「日本の進むべき道」すなわち日本国の新国家構想であった。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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