NPO法人武士道協会

これまでの名言集

物流をなめらかにするのには、日本は統一されるべきだ

本多利明

▼ この名言の解説
 本多利明はいまでいえば経営コンサルタント的な思想家で、特に国内の物流問題をテーマにしていた。
 かれは物流をなめらかにするためには交通網の整備が必要で、まず各藩(大名家)がつくっている関所や船番所を壊さなければだめだと主張した。
 しかしそのためには藩と藩が連携するようなまとめ方が大事であり、それが結果的には国家の統一に結びついていく。
 利明は交通だけでなく、貨幣問題にも見識を持っていたから、貨幣の統一を考える上においても、各藩がばらばらな藩札を使っていたのではどうしようもないと感じていた。
 自分の考えを彼は各大名家に行って説いてまわった。しかし、ほとんどこの突拍子もない考えに共鳴する者はいなかった。わずかに、加賀(石川県)の海商銭屋五兵衛が共感して、五兵衛は利明の説く“海に国境は無い”という考えに感動した。
 五兵衛は積極的に密貿易に乗り出していく。加賀藩のためだったが、やがて幕府の知るところとなった。五兵衛は捕らえられ獄死してしまう。しかもその時期が開国寸前という皮肉な時であった。
 久坂玄瑞や西郷吉之助などの大名間あるいは草莽の志士間の合従連衡という、半ば理念的な次元とは別に、実生活者たちは、自分の体験から国家の統一を願いはじめていたのである。

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日本はひとつ。が、国防は農民が担おうか

渡部斧松

▼ この名言の解説
 渡部斧松は秋田藩の豪農だ。農政家として有名だった。
 学問好きで若いころは江戸に出て勉強した。しかし江戸の当時(化政時代)の享楽的な生活を見て失望し、故郷に帰った。
 そして長い年月をかけて男鹿半島の開拓に乗り出した。この開拓は二十七年もかかったという。しかし広大な新田が開かれた。
 開拓を続ける間中、近くの日本海にしばしばロシア船が姿を現した。これを見て農民たちは不安の念に襲われた。
 斧松は、「怖がるな。この国を攻める外国船は、我々の手で打ち払おう」といって農民をそのまま軍隊に組織した。
 彼が“日本はひとつ”といったのは、いまのように各藩がばらばらに勝手なことをしていたのではこの国は守れない、日本はひとつにまとまるべきだと考え始めたからである。

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諸侯頼むに足らず、公家《くげ》も頼むに足らず、草莽《そうもう》の糾合の外なし

久坂玄瑞

▼ この名言の解説
 西郷の考えとは違って、久坂玄瑞は、「大名や公家はあてにならない。本当に力を発揮するのは草莽(草の根)の連中だけだ」と言い切った。久坂が浪人志士たちと付き合いが深く、いわゆる個人やグループに属する活動が長かったためだろう。
 そのため、同じ松下村塾門下ではあっても、高杉晋作たちと仲はいいけれど、発想において隔たりがあった。西郷のいう“大名の合従連衡”を久坂は“草莽の合従連衡”という形で実現した。
 だから、高杉晋作が長州藩の下級武士や農工商三民を集めて奇兵隊をつくったが、これがいわば“藩内組織”であるのに対し、久坂玄瑞が関わりを持った遊撃隊や忠勇隊は“藩際組織”といっていい。しかもその藩際組織も構成員が脱藩者や浪人で成り立っていたところに特性がある。いわば“自由人である志士の連合体”だった。
 しかし藩に属さないこの自由人連合組織は、実際には禁門の変あたりで消滅する。同じ藩内の高杉晋作や桂小五郎、そして薩摩藩の西郷吉之助や大久保一蔵などの「絶対に脱藩しない下級藩士」の意志が、そのまま藩を動かして、今度は藩自体の意志として大きく政治面に躍り出てくるからである。
 それと同時に、高杉晋作の率いる奇兵隊は絶対に禁門の変などに突出参加するようなことは無かった。この辺にも高杉と久坂の考えに溝がある。

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天朝の御為《た》めに忍ぶべからざるを忍び、道の絶えるまで尽します

西郷吉之助(隆盛)

▼ この名言の解説
 尊王という思想が具体的に国体改革論に発展してきた。
 西郷吉之助は故島津斉彬の愛弟子で、尊王思想を徹底的に叩き込まれた。また、西郷は水戸の藤田東湖にも教えを受けたので、いよいよその思想を深めた。
 結果、「この国の一体化を図らなければだめだ」と考えるようになった。そのためには大藩の諸侯が合従連衡して、新しい政府樹立が必要だと思った。つまり“藩と藩との連合”を考えはじめたのである。
 これは、いままでの尊王攘夷運動が、どちらかといえば個人あるいはグループによって行われてきたのを藩という組織に切り替えようという考えに変わっている。
 だから西郷は、どんな酷い目に遭っても絶対に脱藩はしなかった。最後まで薩摩藩士として行動する。やがては薩摩藩の代表になる。
 かれは、「個人やグループでは、やはりその力のほどが知れている。何といっても、大業を為すためには藩という組織を活用しなければだめだ。藩ぐるみ、ひとつの思想に固まる事が大切なのだ」という信条を貫いた。
 これはかれの盟友大久保一蔵(利通)も同じだ。そして長州藩の高杉晋作や桂小五郎なども全く同じだった。高杉や桂も絶対に脱藩はしなかったからである。
 西郷が考えた大藩の諸侯の合従連衡は、やがて別な角度から坂本竜馬の提唱で薩摩藩と長州藩が連合する。

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犯人は行方不明で目下探索中です

奈良原喜左衛門

▼ この名言の解説
 薩摩藩の名君島津斉彬が死んだ後、弟の久光は兄の遺志を継いで無位・無官の身ながら、天皇の勅使の護衛隊長の資格で江戸城に行き、幕府に交渉してその改革を迫った。
 帰りに、神奈川の生麦で行列の先を横切ろうとしたイギリス人などを斬った。これが“生麦事件”だ。
 問題を重大視したイギリス側は、薩摩藩に犯人の引渡しと賠償を迫った。対応したのが奈良原喜左衛門という薩摩藩士だ。
 ところが、生麦事件の犯人は、実を言えば奈良原自身だった。しかし奈良原はとぼけて「犯人は行方不明なので目下探索中です」としゃあしゃあとして応えた。
 さらに賠償金の件は、「徳川幕府が定めた法律によって、大名の行列を横切る者はたとえ日本人でも惨殺いたします。したがって、文句があれば幕府の方に言っていただきたい」とこれも押し返した。
 怒ったイギリスは、ついに軍艦を率いて鹿児島湾に突入し、鹿児島を砲撃した。このとき薩摩藩はよく戦った。死傷者はイギリス側の方が多かった。そしてこのとき、薩摩側の指揮を執ったのが大久保一蔵(利通)である。
 しかし薩摩側の被害も大きく、故斉彬がつくった磯庭園の工業都市はほとんど破壊されてしまった。
 しかしこれをきっかけに、薩摩藩とイギリスは仲良くなり、イギリスも薩摩藩の実力を知って「やがて新しい政府の有力な一員になるのは薩摩藩だ」と考えた。同時に日本の主権者は徳川将軍家ではなく天皇家だという考えを持ちはじめた。

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幕府への最大の謀反人はわたしだろう

トーマス・グラバー

▼ この名言の解説
 トーマス・グラバーはイギリスの商人だ。安政六(一八五九)年九月に日本に渡来、長崎でグラバー商会を開いた。しかし政商といってよく、日本の政治状況を見極めながら次第に徳川幕府を見放し、薩摩藩や長州藩と交流した。幕末の討幕戦争の西洋式武器の供与は、ほとんどグラバー商会が担当している。長崎の海を見下ろす丘にグラバー邸を設け、これは現在も観光客の見物対象になっている。
 伝えられるところでは歌劇“マダム・バタフライ(蝶々夫人)”のモデルだといわれたが、そういう関係はない。マダム・バタフライは、ジョン・ルーサー・ロングの小説をもとに、ベラスコが脚色してミラノで初演した。これにイタリアの作曲家プッチーニがオペラに仕組んで世界的名声を博した。
 グラバーは薩摩藩の工業化に協力し、製茶工場や造幣局などの開設を手伝っている。また日本に蒸気機関車を輸入したのもグラバーが最初だった。

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彦島の租借などとんでもない

高杉晋作

▼ この名言の解説
 四国連合艦隊の砲撃の前に、長州藩は屈服した。講和交渉が行われた。この時、代表に選ばれたのが高杉晋作である。通訳としてロンドンに留学したことのある伊藤俊輔(博文)が同行した。
 連合国側はいくつかの条件を出した。賠償金を払うこと・外国船の下関海峡通行の自由を保障することなどである。この中でイギリスが「彦島を百年間租借したい」と言い出した。
 しかし高杉はすでに上海に行って来た経験があり、イギリスをはじめとする列強の中国本土への進出、あるいは中国人民を奴隷のように使っている実情をその目で見てきている。
 そこで高杉は「租借などとんでもない。彦島は絶対に貸せない。日本の国はイザナギ・イザナミの二神がお造りになった神国だ。日本国土の一部である彦島を外国に貸すことなど思いもよらない。お断りする」と断った。高杉の剣幕に驚いたイギリスは苦笑して要求を引っ込めた。
 この時の高杉の決断はあまり歴史で知られていないが立派だ。もしも屈服して彦島をイギリスに租借させてしまったら、近年になってようやく返還された香港島の二の舞になっただろう。
 また賠償金について高杉はこう言った。「攘夷を決定したのは徳川幕府だ。われわれは一大名として幕府の命令に従ったまでだ。賠償金は幕府から取ってくれ」。これには四国の代表たちも顔を見合わせた。高杉の言うことに理があったからである。
 四国は交渉先を幕府に変えた。幕府はやむをえず五十万ドルずつを六回に分けて合計三百万ドルを支払った。
 この過程を見ていたイギリス国では「幕府には日本を管理する力はない。これからは長州藩や薩摩藩の天下になる」と見抜いた。そこで密かに長州藩や薩摩藩を応援することに決めた。

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有志の者の集まりなので、もっぱら力量を貴ぶ

高杉晋作

▼ この名言の解説
 高杉晋作は上海に行って中国の厳しい状況を見た結果、「日本を第二の清国にしてはならない」と考えた。
 しかし今の長州藩の藩兵はあまり頼りにならない。長州藩は、文久三(一八六三)年五月十日の日に関門海峡で攘夷を実行した。通過する外国船に片っ端から大砲を撃ち込んだ。
 そのために被害に遭ったアメリカ・イギリス・フランス・オランダの連合艦隊が報復にやって来るという噂もある。長州藩は次第に孤立していた。
 そんな時に高杉は「長州藩を守るためにはもっと強い軍隊をつくる事が必要だ」と考え、武士に限らず農工商三民も含むような新しい組織をつくった。これが奇兵隊である。奇兵というのは藩の正兵に対する言い方だ。他藩からの亡命者も加入させた。
 かれは次のように述べている。「奇兵隊の儀は、有志のもの相集まり候儀につき、陪臣・雑卒・藩士を選ばず、同様に相交わり、もっぱら力量を貴び、堅固の隊、相ととのえ申すべくと存じ奉り候」
 一見平等精神を重んずるように思えるが、必ずしもそうではない。奇兵隊では武士と農工商の区別ははっきりつけられた。その意味では、坂本竜馬のつくった海援隊や近藤勇の率いる新撰組の方が、はるかに幕末における身分解放を実現していたと言っていい。
 しかし四国連合艦隊が報復にやって来たとき、長州藩の国土を守るために奮戦したのは正兵ではなくむしろ奇兵隊であった。
 高杉はやがて反乱を起こし、藩の政庁を乗っ取ってしまう。そしてあとは上方に亡命していた桂小五郎を呼び返してこれに任せる。
 つまり高杉は古い家を壊すのは得意だが、新しい家を建設するのはやはり桂小五郎の方が適任だと考えていたからだ。

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涙をかかえて沈黙すべし

中岡慎太郎

▼ この名言の解説
 中岡慎太郎は土佐出身の郷士志士だ。しかし早くから脱藩し、京都にあって過激派の公家や長州藩と連携を保ちながら、尊王討幕運動を続けていた。
 八・一八の政変のときも、七人の公家に従って長州に行った。そして禁門の変には、浪人で編成した遊撃隊を率いて突入した。が、敗れた。
 浪人志士たちが“今楠木公(現在の楠木正成公)”と尊敬していた真木和泉は、京都から脱し天王山の頂上に上って自決した。
 中岡慎太郎は再び長州の三田尻に帰った。このころ故郷から便りが来て、土佐勤皇党が壊滅させられ、同志二十三人が斬首に遭ったといわれた。
 中岡慎太郎は暗然と声を呑んだ。つぎつぎと重なる悲運にかれはぐっと歯を食いしばった。
 このときに彼が書いた手記が「涙をかかえて沈黙すべし」という悲壮なものである。この手記はまだ土佐藩に潜伏している同志に送られたものだ。
 土佐の同志にとっては、慎太郎の同志と言われた坂本竜馬よりもかなり信望があった。中岡慎太郎は後に土佐藩の陸援隊長になる。

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おれの死に場所は天皇の乗物の下だ

桂 小五郎

▼ この名言の解説
 桂小五郎は後に木戸孝允と名を変えて明治の元勲になる。
 彼は江戸の斎藤道場で免許皆伝の腕前を持っていたが、京都で活躍中も人を斬ったことは一度もない。そのために“逃げの小五郎”と呼ばれたのかもしれない。
 高杉が故郷で必死になって暴発組を止めている間に、池田屋事変が起こった。壬生にいた新撰組が三条小橋脇の旅宿池田屋に終結していた志士たちを急襲したのである。殺された志士が七人、逮捕されたのが二十三人いた。
 この報が長州に届くと、多くの者が激昂した。もう止めることはできない。とくに真木和泉が指揮する浪人志士隊は憤激した。長州藩も出兵を決し、ついに京都に突入した。
 このとき京都にいた桂小五郎は必死になって長州軍の進撃をとめようとした。このときにいった言葉が
「おれの死に場所は鳳輦(天皇の乗物)の下以外ない。君たちは一体どこで死のうというのだ?」
 と今回の突撃によってもしも死んだら犬死になると必死になって告げた。しかし勢いのついた長州軍はそんな桂を逆に「卑怯者!」と言って蔑み、御所に突入して行った。しかし敗退した。
 このとき長州軍を撃退したのは主として薩摩軍だ。すでに近代化した武器を持ち、黒いズボンを穿いた秩序正しい軍隊に、劣悪な武器しかなかった長州軍は撃ちまくられた。そして薩摩藩兵の指揮を執っていたのが西郷吉之助(隆盛)だったのである。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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