NPO法人武士道協会

これまでの名言集

佐久間象山はほら吹きで困るよ

勝 海舟

▼ この名言の解説
 佐久間象山について勝海舟が言った言葉だ。正しくは、
「佐久間象山は物知りだったよ。学問も広いし、見識も多少持っていた。しかしどうもほら吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらせたらどうだろうか……。何とも保証はできないな。
 横井小楠と佐久間との人物はどうかといえば、大変な違いがある。横井という男はちょっと見たところではなんの変わった節もなく、その服装なども黒ちりめんの合わせ羽織に平袴をはいていて、大名のお留守居役とでもいうような風だった。人柄もひどく老成円熟していて、人と議論などするような野暮は決してやらなかった。
 佐久間の方はまるで反対で、顔つきからしてすでに一種奇妙なのに、平生、緞子の羽織に古代模様の袴をはいて、いかにもおれは天下の師だというように厳然と構え込んで、元来勝気の多い男だから、漢学者が来ると洋学をもって脅しつけ、洋学者が来ると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生が訪ねて来ても、じきに叱り飛ばすという風で、どうも始末にいけなかったよ」
 しかし若い頃の勝海舟は佐久間象山に入れ込んで、その教えをかなり受けた。しかも自分の妹順子を象山の妻にし、形の上では象山の義兄になった。
 先に書いたように象山が書斎に掲げていた「海舟書屋」という扁額までもらったのだから、この言い方は少し礼に失している。
 しかし、象山も「自分は日本のナポレオンだ」と豪語するような性格だったから、やはり「おれがおれが」の面があり、勝海舟とはまともにぶつかり合えば互いに「あいつは嫌いだ」ということになる。

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藤田東湖は若者を大勢集めては騒ぎまわっている。実にけしからん男だ

勝 海舟

▼ この名言の解説
 明治維新後、勝海舟は幕末時に交際したいろいろな人物について論評を加えている。これは藤田東湖に対して勝が言った言葉だ。正しくは、
「藤田東湖はおれは大嫌いだ。あれは学問もあるし、議論も強く、また剣術も達者で、一角役に立ちそうな男だったが、本当に国を思うという赤心(真心)がない。あの頃の水戸は天下の御三家なのだから、直接に幕府へ意見を言えばよいはずだ。それなのに東湖は書生を大勢集めて騒ぎまわるとは、実にけしからぬ男だ。おれはあんな流儀は大嫌いだ」
 という東湖評だ。
 勝海舟の維新後における発言は、かなり「おれがおれが」という色合いが濃い。まるで明治維新は自分ひとりで実現したような発言さえある。
 藤田東湖は、必ずしも勝のいうような人物ではない。やはり偉大な思想家だ。しかし東湖にも多少「おれがおれが」という性癖があったのだろう。これは人間としてプラス対プラスになるから、ぶつかり合うと火花が散る。したがって両方引かない。そんな人間関係がおそらく勝にこんな東湖評を口にさせたのだろう。
 日本人にはどうも「誰が言っているか」ということを重視し、「何を言っているか」という内容を無視する悪癖がある。すぐれた人間ほど、この癖が強い。
 したがって、勝も「東湖はいいことを言っている。しかし自分は東湖が嫌いだ。嫌いな人間はいくらいいことを言おうと、自分は信用しない」という、いまでもある日本人の悪い癖が出たのではなかろうか。
 この「何を言っているかではなく、誰が言っているか」という悪癖は、歴史が変わる大事な時期にかなり判断を誤らせている。

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藤田東湖はまるで山賊の親分だ

西郷隆盛(当時吉之助)

▼ この名言の解説
 開明的な薩摩藩主・島津斉彬は、若い西郷吉之助を腹心として使い、西郷自身の目を開かせた。
 それまでの西郷は斉彬の見るところ、“薩摩の一匹のカエル”だった。斉彬はそれを“日本の大きなカエル”に育てようとした。
 そのために、水戸藩の藤田東湖をも訪ねさせた。このとき、東湖と初対面であった西郷吉之助が、斉彬に「藤田東湖はどうだった?」と聞かれて「まるで山賊の親分のようでございました」と応えた。
 藤田東湖は西郷の純粋な精神を愛し、しばしば自分のところに呼んでは教えを垂れた。
「いまは、国中挙げて心をそろえ日本に無礼を働く列強外国に対さなければならない。それには、やはり主動者が必要だ。
 自分の見るところ国内での主動者はおぬしの主人・島津斉彬公以外ない。また、日本の国を統一するためには、主上(天皇)のご親政を仰ぐ事が肝要だ。
 この実現に斉彬公がご奮闘くだされば、天下の諸侯も必ずあとに従うに違いない。ぜひ、君も奮発して斉彬公をたすけてもらいたい」と告げた。
 したがって、西郷の最初に持った思想は東湖の影響による「尊王攘夷論」である。西郷は完全に“山賊の大親分”に惚れ込んでしまった。

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外国の侮りを受けながら交際するのは独立国家として衒気《げんき》を失っている

藤田東湖

▼ この名言の解説
 これは、弟子の佐久間象山が、「いま開国は天下の公道であって、これを拒むのは理屈に合わないことです」と言ったときに、師の藤田東湖が応じての発言だ。
 東湖は、逸る佐久間象山の意見を認めつつも、「だからといって、外国に侮辱されながら開国するというのは、独立国家として主権を失うようなものだ」と応じた。象山は怒って「あなたは保守的なガリガリ亡者だ」と罵った。
 カッとした東湖は「お前のような道理のわからない奴は破門だ」と言った。象山は傲然として、「こちらから先生を破門したいくらいです。失礼します」と言って東湖の家を出ようとした。
 すると東湖は玄関までついてきて、急に態度を和らげ「またおいでよ」と言った。象山は振り返った。「いま破門したばかりのわたしになぜそんなことをいうのですか」と食ってかかった。
 すると東湖は「いや、この次は戦場で会おうという意味だ」と東湖は冗談を言った。象山はじっと東湖をみつめていたが戻って来た。
 そして二人は本心から「開国を迫る列強外国に対応するにはどうしたらよいか」ということを話し合った。合意したのは、
  • 日本も外国に負けない大艦を造って、積極的に海外へ飛躍すべきだ
  • そのうえで、国力を充実し、やがては日本を恫喝する外国諸国を打ち払うべきだ
 という点であった。いってみれば藤田東湖も佐久間象山も「積極的な開国によって、攘夷を実現しよう」ということなのだ。
 が、象山はやはり「攘夷などやってはいけないことだ」と自説をゆがめなかった。この辺に東湖との差があった。

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あなたには大老としての能力がありません

岩瀬忠震

▼ この名言の解説
 これは、旗本の岩瀬忠震が、いよいよ大老に就任するという彦根藩主・井伊直弼に向かって言った言葉だ。全く「すごいこといやはる」という気がする。
 幕末は第二の戦国時代だということは本書の「はじめに」書いた。戦国時代の風潮は“下剋上”だ。
 いまも同じで、下剋上というのは「下位者や後輩が自分の上位者を選ぶ」ということだ。子供が親を選び、生徒が先生を選び、部下が上司を選ぶということである。いまもそういう現象がしきりに起こっている。
 岩瀬忠震は開明的な老中阿部正弘が登用した人物のひとりだ。阿部は新しく「海防掛」というセクションをつくり、ここに有能な幕臣を抜擢した。一様に「目付」という資格を与えた。目付は当時、幕府の中でも相当に権威を持っていたからである。
 つまり阿部にすれば「海防掛は、目付資格で大いに権威を持って自分の仕事に自信を持て。思い切ったことをやれ」と命じたのである。
 その中でもアメリカ担当として目を見張る活躍をしたのが岩瀬忠震だった。しかし岩瀬も阿部と同じように「次の将軍は一橋慶喜殿が相応しい」と考え、その工作を江戸城内で行う推進派だった。したがって、井伊にすれば好ましい存在ではない。
 その岩瀬が面と向かって「あなたには大老になる資格がない」と言い切ったのだから、井伊としては切れんばかりの怒りを覚えた。本当なら安政の大獄を展開した時に、岩瀬も一緒に処分したかった。
 しかし当時、アメリカとの間で通商条約調印の問題が待ち構えていた。これは岩瀬でないとだめだ。そこで井伊は調印が済んだ後、岩瀬を処罰した。永禁固という、ほかの幕臣が受けなかった重い罪である。
 岩瀬は江戸向島あたりに閉居し、ほとんど悶死同様に死んでいく。

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骨肉の愛情で国家を捨てられない

孝明天皇

▼ この名言の解説
 極度に険悪化した朝廷と幕府の関係を回復するために、幕府首脳部は将軍家茂の妻に孝明天皇の妹和宮親子内親王を迎えようという策を立てた。
 もちろん京都朝廷は反対した。しかし、公家の岩倉具視たちはここに現状打開の道を発見し、孝明天皇に意見具申して降嫁の条件として、幕府が必ず攘夷を実行することを求めることになった。
 和宮にはすでに有栖川宮熾仁という許婚がいた。和宮も東国を怖れ嫌がった。しかし兄の孝明天皇は和宮に「公武合体(一和)のためには、たのむ」と説得し、ついに納得させた。
 このことが決定した後、降嫁推進派であった岩倉具視たちに勅語を出した。その勅語の中に「骨肉の情において忍びざるところなり。然れども朕は骨肉の愛情をもって、国家を捨つることあたわず」と書いた。
 人間天皇として、妹を思う切々たる思いが伝わってくる。そして半分は推進派であった岩倉たちに「なぜ、妹をここまで苦しめなければならないのか」と詰問しているような節さえある。
 しかし、岩倉たちにすれば「もしも幕府が約束を守らなければ(攘夷を実行しなければ)、そのときは討幕の口実ができる」と考えていた。
 しかし関東に降嫁した和宮は、その後、同い年の家茂とは非常に仲良く暮らした。家茂はやがて第二次長州征伐の総司令官となり、大坂城で病死してしまう。

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武士は東国に限ります

近藤 勇

▼ この名言の解説
 八・一八政変の後、長州藩をはじめ尊王攘夷派は窮地に追い詰められた。テロ活動を行おうとすればすぐ新撰組が出撃してくる。
 切羽詰った浪人志士群は、大規模なテロ計画を立てた。それは、
  • 風の強い日に京都に放火する
  • 中川宮(親幕派の公家)と守護職である松平容保を殺す
  • 新撰組屯所を襲って、捕らえられている同志を救う
  • 天皇に御動座を願い、彦根あるいは長州に御案内する
 などという凄まじい計画を立てた。
 これを知った新撰組は密謀を凝らしている志士たちのアジト池田屋を急襲した。池田屋に集まっていたのは三十数人の志士たちだったが、七人が殺され、残りのほとんどが逮捕された。
 最初、近藤勇はわずか五人の部下を連れて池田屋へ踏み込んだ。土方歳三たちは別の宿を襲っていた。最後には合流する。この事件によって新撰組は一躍名を高め“壬生の狼”
 “人斬り狼”と呼ばれるようになる。
 近藤勇は経緯を江戸の養父・近藤周斎に報告した。この報告書の中に「武士はやはり東国に限ります」という一文がある。近藤から見ると、上方の武士たちは口数は多いが、なかなか手足を動かして行動しないという判断をしたのだろうか。
 あまりよけいなことを言わなかった近藤には、やはり武士は「不言実行」が望ましかったのである。だから、隊士の数が減ると近藤は必ず江戸に行って、関東地方から入隊者を募集している。
 幕府が崩壊する過程で、徳川の直参武士がほとんど役に立たなかったのに比べ、浪人集団の新撰組だけが最後まで忠節を尽くしたというのは興味深い現象だ。

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行くも憂《う》し行かぬもつらし

松平容保

▼ この名言の解説
 松平容保は幕末の会津藩主で京都守護職を務めた。
 しかし、京都守護職を任命されたときは家臣の大部分が反対した。容保の父も反対した。
 それは、江戸時代の大名家は、財政的にすべていまでいう“十割自治”であって、どんなに財政難に陥っても国(幕府)は一文の補助金もくれない。したがって、東北のように北限の適用を受けて産品に限りがあるところは、関東地方から西の地域に領地を持つ大名たちよりもハンデがあった。
 また、幕府から役を命ぜられても、役職手当は出ない。全部持ち出しだ。したがって幕府の要職を占めることは、大名家にとっては決して歓迎すべきことではなく、名誉よりもむしろ財政難の方が怖かった。会津藩の重役たちはそのために容保の就任に反対したのである。
 が、会津藩主の松平家は藩祖の保科正之以来、徳川家と特別な関係があった。保科正之は三代将軍徳川家光の実弟だ。そのため正之は会津藩の藩士に対し「我が家は他の大名家とは違う。徳川本家に何かあったときは死を覚悟して尽くさなければならぬ」と教えた。これが“会津武士道”である。
 その伝統を大切にする容保は、たとえ財政難であっても徳川本家のためには京都守護職を務めなければならないと考え、部下たちを説得した。しかし父からも反対され、彼は、
行くも憂し 行かぬもつらし如何にせん 君と親とを思ふこころを
 と苦悩の選択を和歌にした。が、京都に行った彼は名守護職であって、時の孝明天皇から二度も感状を貰っている。
 しかし、当時の佐幕派の諸大名の軍勢は弱く、容保がもっとも頼りにしたのが浪人集団の新撰組であった。
 新撰組の方も容保の徳川家に対する忠誠心を高く評価し、命を捨てて京都治安のために活動した。新撰組は「京都守護職預り」という曖昧な存在だったからである。

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あめりか船をうちやはらわん

土方歳三

▼ この名言の解説
 土方歳三はいうまでもなく新撰組の副長だ。おおらかに隊士全体を統率する局長の近藤勇に比べ、組織を保つための非情な行為を一身に背負って立つ役割を担った。憎まれ役を買って出たのである。
 新撰組というのは、幕府公認のいわば私設警察隊で、京都の治安維持を任務とした。しかし池田屋事変以来、“壬生の狼”と言われて恐れられた。とくに個人志士は、京都の狭い道を追われて逃げまくった。それだけに新撰組に対する憎しみは深い。
 土方は近藤勇と同じ武蔵(東京都)多摩の出身だ。家は豪農で、歳三は若いころは家業の薬を販売して歩いたともいう。イケメンで女性にもてた。そのためにしばしば間違いも起こした。
 江戸の柳町で道場を開いていた近藤勇の弟子になり、やがては盟友となった。新撰組の秩序を維持するための規制や、これに背いた隊士の処断などは土方がすべて行った。とくに五箇条の隊規に背いた隊士に対する処断は厳しい。
 新撰組の隊規の冒頭に「士道ニ背キマジキコト」というのがある。新撰組では隊士の前歴は問わない。したがって種々雑多な職業の人間が入隊している。しかし土方は近藤と相談して「一旦新撰組に入った者はすべて武士として扱う」という考えを実行した。
 したがって「武士にあるまじき行為を行った者は容赦なく切腹させる」という厳しい処罰方針も保った。
 近藤のほうは、ときに「ちょっと酷すぎないか」という寛容さを示したが、土方はガンコに首を横に振った。「特例を認めたら、絶対に隊の秩序は保てない」。
 幕府が崩壊するとき、近藤は新政府軍(官軍)に自首して首を斬られる。しかし土方は会津から箱館にかけて最後まで戦い抜く。そして明治二(一八六九)年五月十一日に、箱館の路上で壮烈に戦死する。
 掲げた言葉は彼の作った和歌の意訳だ。正しくは
いざさらば我も波間にこぎいでて あめりか船をうちやはらわん
 というものだ。「あめりか船をうちやはらわん」というのは攘夷思想であって、土方歳三は思想的には攘夷論者だったのだ。

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かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和たましい

久坂玄瑞

▼ この名言の解説
 久坂玄瑞は、高杉晋作と共に松下村塾における逸材だ。松陰の精神を純粋に引き継いでいたといっていい。
 藩内での活動よりも、むしろ藩外の志士たちのまとめに力を尽くした。幕末の長州藩は尊王攘夷の総本山だったが、多くの浪人志士たちが長州藩を頼った。
 そのとき、このまとめにあたったのが久坂玄瑞だ。浪人志士たちの隊を長州藩軍に組み込むことなく、独立した自主性ある組織として待遇した。だから、浪人志士たちの間で久坂玄瑞の信望は高かった。
 文久三(一八六三)年八月十八日に、あまりにも過激化し、テロ活動を横行させる尊王攘夷派に反対勢力が結集して、“八・一八の政変”を起こした。テロ行為に走る志士と、これを背後から支持する長州藩を一挙に京都からたたき出したのである。
 七人の公卿を戴いて、長州藩軍や浪人志士群が、ともに雨の中を長州に下って行った。いわゆる“七卿落ち”だ。
 このとき俯きがちな全軍に対し、久坂は即席の今様(軍歌)をつくって全員の士気を鼓舞した。しかし翌年の禁門の変で、久坂は壮烈な戦死を遂げる。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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