NPO法人武士道協会

これまでの名言集

横井先生は二階で芝居を見物してください

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 慶応元(一八六五)年の夏、薩摩にいた坂本竜馬は、西郷たちの依頼によって、長崎に海援隊の前身である亀山社中を作るべく北上した。
 このとき熊本に寄って、横井小楠に会った。横井小楠は好奇心旺盛だから、「坂本君、芝居がはじまるのではないかね」と聞いた。竜馬は笑って頷き、「はじまりますよ。でも先生は二階の客席でゆっくり見物してください」といった。
 これは坂本なりの牽制球であって、横井小楠が出てくると問題がややこしくなると見たのではなかろうか。坂本の考えでは、横井先生はすぐれた思想家ではあるが、実際行動になるとやはり問題を起すと考えていたのだろう。小楠は自分のことをそうは思っていない。「そろそろ自分の出番があるはずだ」と、その芝居での役割を期待した。
 が、坂本はさらりとかわしてしまった。この辺はなかなか、かれの師匠の勝海舟から引き継いだ政治性が身についたといっていい。

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おもしろい芝居がはじまります

大久保利通

▼ この名言の解説
 幕府が第二次長州征伐を令したころの、薩摩での大久保利通の言葉だ。
 かれは「いよいよおもしろい芝居がはじまります。しかしこの芝居はわが思う図に乗ったようなもので、かれはかれ、われはわれで大決断策を用いなくては済まないでしょうから、まず気張っていただきたい」といっている。
 かれはかれというのは「長州藩は長州藩で独自に考えるでしょうから」ということであり、われはわれというのは「薩摩藩は薩摩藩で自主性をもった行動計画を立てるべきです」ということだ。
 しかしこのころは大久保もすでに西郷と同じように「長州藩と手を組むべきだ」と考えはじめていた。
 幕府首脳部から薩摩藩代表として大久保が呼び出され「第二次長州征伐に出兵するように」と命ぜられると、大久保は、「この戦争には大義がありません。出兵はお断りいたします」といって断った。藩主の代理として断り状を差し出した。
 幕府側ではこの書面を見て「藩主の署名捺印がない」というと、大久保は「では」といって、しゃあしゃあと自分が代筆してしまった。その豪胆さに幕府首脳部は顔を見合わせ、呆れたという。

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共に錦旗を掲げて帝基を護らん

黒田清隆

▼ この名言の解説
 これは薩長連合が成立した直後、立ち会っていた黒田清隆が長州藩士山県有朋に贈った詩の一節だ。
 山県は別項で書いたように和歌の名人で、風流心があった。黒田清隆も詩を作るのが得意だ。そこで連合成立の後、再会を期して黒田と山県は互いに別離を惜しんだ。
 山県も詩を作った。「両心相結んで 相離れず……一語君に贈る 君よく記せよ 回天の志は 皇基を建つるにあり」と。
 これに対し黒田が詠んだのは「男子なにすれぞ 別離を嘆くぞ……共に錦旗を掲げて帝基を護らん」と、お互いに大いに志を述べあった詩だ。
 このころの黒田は完全に山県と意見が一致していた。同時に友情も湧いていた。人間と人間による「薩長連合」を二人が示したのである。

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薩長一致シテ事ヲ済《な》スベシ

黒田清隆

▼ この名言の解説
 黒田清隆がこの言葉を口にしたのは、禁門の変(元治元〈一八六四〉年七月)のときだ。相手は西郷隆盛だ。尊敬する薩摩藩の先輩だった。かれに「砲術の名人にならず、天下に有用の士となれ」と助言した人物だ。
 西郷は驚いた。というのは、禁門の変で西郷は薩摩軍の指揮を執って、近代化した銃隊によって長州軍を敗北させたばかりだったからである。西郷にすれば(この男は一体何を言い出したのか?)と眉を寄せたに違いない。
 しかし黒田は本気だった。こういう不幸な事が起こったが、しかしいずれは薩摩藩と長州藩が手を組まなければ、回天の大業は成功しないと見ていた。
 その先見力はすばらしい。西郷は感心した。しかし西郷自身が長州藩に行けば殺される。自分たちを御所から追い払った憎い敵だったからだ。
 黒田清隆は西郷の秘命を受けて、旧知の長州藩士品川弥二郎と会った。そして木戸孝允(桂小五郎)に密かに面会した。
 しかし木戸はけんもほろろだった。「われわれにあれほど大損害を与えた薩摩藩と、なぜ手を組まなくてはならぬのか」と逆に食ってかかった。黒田は意気消沈した。
 こういう状況を見ていたのが坂本竜馬である。「こういう話は、当事者同士ではなく第三者が仲介役になった方がいい」といって、乗り出してきた。

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砲技の人となるなかれ 天下の士となるべし

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 この言葉は西郷隆盛が後輩の黒田清隆(当時は了介)に告げたものだ。黒田清隆が、藩の命令によって幕末の有名な砲術学の江川塾(すでに死んだ太郎左衛門が開いた砲術塾)に入門したときに、西郷が黒田を戒めて告げた言葉である。西郷は黒田の中に「将来こいつはものになる」という資質を認めたのだろう。
 西郷自身、郡奉行所役人であったときに、主人の島津斉彬から「薩摩のカエルで終わるな。日本のカエルになれ」と諭されたことがある。同じことを後輩に告げたのだ。
 これは黒田と薩長連合の下工作をしていた長州藩の山県有朋についても同じ事が言える。
 山県もはじめは槍の名人を志したが、松陰や諸先輩に諭されて「尊王攘夷論者」という思想的発展を遂げてゆく。
 黒田は数学が得意だったという。また英語もよくこなした。江川塾で砲術の免許皆伝を受けたが、同時に黒田は「人を指揮し統率する要領」も身につけた。
 西郷が忠告した「砲技の人(砲術の名人)にならず、天下の士となるため」の勉学であった。

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おもしろきこともなき世をおもしろく……

高杉晋作

▼ この名言の解説
 高杉晋作は慶応三(一八六七)年四月十四日に、二十九歳で死ぬ。
 この時、枕辺にいた人たちに遺言のような歌を詠んだ。それが「おもしろきこともなき世をおもしろく」で、ここまで詠んでかれが疲れたといって、下の句を続けるのをやめた。
 すると枕辺にいた野村望東尼が、「す(住)みなすものは心なりけり」と続けた。聞いた高杉は「おもしろいのう」と苦しい息の下からニッコリ笑っていった。
 しかしわたしにはおもしろくも何ともない。これは高杉の臨終時の望東尼に対するお世辞だ。わたしはむしろ上の句だけで高杉が死んだ方がよかったと思っている。望東尼ばあさんは余計なことをしたと感じている。
 野村望東尼は福岡藩士野村貞貫の後妻で、福岡郊外の平尾村に山荘を持っていた。この山荘で随分、志士を匿った。平野国臣・月性・高杉晋作などである。
 この勤王運動が藩に憎まれて姫島に流罪になった。高杉晋作はこれを知るとすぐ姫島から望東尼を救出した。
 高杉の号は「東行」だが、望東尼の号もあるいはその東行を望む、慕うという意味があったのかもしれない。いわば晋作への追っかけばあさんであり、勤王ばあさんでもあった。
 大隈言道に歌を学んでいたから、和歌が沢山ある。しかし彼女は「わたしは歌のための歌は詠まない。すべて勤王のためだ」といっていた。

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追《おい》ゆきし蛍は人に取られけり

下関の芸者(名は不明)

▼ この名言の解説
 これは山県有朋が下関の大富豪石川良平の娘友子と結婚するという話が流れたとき、がっかりした馬関(下関)芸者の一人が詠んだ俳句だという。
 山県有朋も結構、紅灯の巷《ちまた》に出入りした。馬関は賑わった海港だからそういう歓楽街があった。
 高杉晋作・伊藤博文・井上馨などもしきりに出没した。奇兵隊の本営がこの近くにあったから、山県も同じように出没していた。かなりもてたらしい。馬関はいってみれば京都の木屋町や祇園のような趣があったのだろう。
 しかし「山県さんがお嫁さんを貰うわよ」という話を聞いたこの芸者は、大いに悲しみがっかりした。しかし山県有朋を“蛍”にたとえるのはおかしい。むしろ高杉晋作の方がその名に値する。晋作はまもなく死んでしまうからだ。
 晋作が死んだとき、山県有朋は、
なき人の魂《たましい》のゆくへをつげがおに おちかへりても啼《な》くほととぎす
 とその死を悼む和歌を詠んでいる。
 かれが松下村塾以来、最も尊敬していた長州人がこの高杉晋作と久坂玄瑞であった。久坂玄瑞は禁門の変で戦死し、高杉晋作は幕末ギリギリの時期に肺結核で死ぬ。

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むか(向)ふ仇《あだ》あらばうてよとたまわりし
つつのひびきも世にやな(鳴)らさん

山県有朋

▼ この名言の解説
 山県有朋が「薩長連合の必要性」を感じて、先輩の高杉晋作や木戸孝允に意見具申していたことは別項で書いた。
 それを実現するために、あるとき山県有朋は同志の品川弥二郎と共に薩摩に行った。そして国父である久光に会った。この時、薩摩側は黒田了介(後の清隆)・川村与十郎(純義)が陪席した。
 久光はこの時、六連発のピストルを山県に与えた。この和歌はその感激を歌ったものだ。
 直後、山県は薩摩藩の家老小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)・大久保一蔵(利通)らと会い、薩長連合とその後に行うべき「討幕」の戦略についても細かく語り合った。これが薩長連合の端緒だといわれる。
 薩長連合といえばすべて坂本竜馬と中岡慎太郎の功績に帰しているが、必ずしもそうではない。連合の話は、いろんな人間がいろんな角度からいろんな相手と語り合っている。坂本竜馬と中岡慎太郎は、それをまとめたといっていいだろう。
 最初の発想と下工作は、主として山県有朋と黒田清隆の間で進められていた。

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いま必要なのは馬上の決断です

山県有朋

▼ この名言の解説
 これは慶応元(一八六五)年の暮れに、山県が木戸孝允(桂小五郎)に出した手紙の一節だ。
「砲声一発を放つことは、防長の二州にとっても、また神州(日本)にとっても幸いなことであると思います。今必要なのは馬上の決断であり、それをひたすら願っております。必要なことはこの防長二州を必死の場所に置くことであって、戦略などは第二の問題です」という内容だ。
 つまり長州藩は完全に孤立した危機に立ってこそ、生きる道が得られるという意味だ。それには、まず幕府に対し宣戦を布告することが先決であって、どうやれば勝てるかなどという机の上の作戦など意味がない、という強気の発言である。
 かれは議論が嫌いだった。「不言実行」を重んじた。したがって萩城の中で、ああでもないこうでもないと第二次長州征伐軍を迎える藩首脳部が議論ばかりしていることを苦々しく思っていた。
「そんな机の上の議論など何の役にも立たない。そんな暇があったら、さっさと武器を手にそれぞれの口(長州への入口)に飛び出して、幕府軍を迎え撃った方がいい。迎え撃つよりもこっちから宣戦布告した方が先手が打てる」という積極論の展開だ。
 つまり「攻撃は最大の防御なり」ということの実践である。

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元就公の位牌を掲げて戦おう

山県有朋

▼ この名言の解説
 これは、奇兵隊が反乱を起こして藩庁を乗っ取ろうとしたときに参加した山県有朋が詠んだ歌だ。
 後年、山県有朋は「日本官僚の祖」といわれ、同時に「クールで知が勝っている人物だ」といわれたが、ここにもその側面が現われている。
 奇兵隊の反乱は、文字通り正規軍を抱える藩庁に対する謀反だ。しかしそれを謀反に終わらせないためには、「毛利家の家祖である元就公の位牌を掲げていけば、保守的な藩庁も文句は言えまい」という知恵を山県は出した。これは「われわれは反乱軍ではない。毛利元就公の軍だ」という宣言だ。
 そうなると藩の正規軍も手が出せなくなる。「奴らは家祖元就公の位牌を掲げているぞ。あれに弾を撃つことは逆に我々が謀反人になる」という心理的な弱みを感ずる。躊躇する。それが山県の狙い目だった。悪知恵といっていい。
 こういう面が後年のかれが政敵を滅ぼすときにしばしば使われた。だから「山県は陰険だ」と見られた。
 しかしかれにとって至上の存在は天皇であって、天皇のためにはいつでも自分の身を投げ出すという決意があるから、やはりたとえ陰険であってもその策には迫力があった。
 これは吉田松陰がいった「山県小助は気の人間だ」という評言を、山県自身も死ぬまで守り続けたといっていい。
 まさに鉄の意志をもち、常に当たって砕けろ的な行動を起した。それが相手を打ち砕くのである。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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