NPO法人武士道協会

これまでの名言集

骨肉の愛情で国家を捨てられない

孝明天皇

▼ この名言の解説
 極度に険悪化した朝廷と幕府の関係を回復するために、幕府首脳部は将軍家茂の妻に孝明天皇の妹和宮親子内親王を迎えようという策を立てた。
 もちろん京都朝廷は反対した。しかし、公家の岩倉具視たちはここに現状打開の道を発見し、孝明天皇に意見具申して降嫁の条件として、幕府が必ず攘夷を実行することを求めることになった。
 和宮にはすでに有栖川宮熾仁という許婚がいた。和宮も東国を怖れ嫌がった。しかし兄の孝明天皇は和宮に「公武合体(一和)のためには、たのむ」と説得し、ついに納得させた。
 このことが決定した後、降嫁推進派であった岩倉具視たちに勅語を出した。その勅語の中に「骨肉の情において忍びざるところなり。然れども朕は骨肉の愛情をもって、国家を捨つることあたわず」と書いた。
 人間天皇として、妹を思う切々たる思いが伝わってくる。そして半分は推進派であった岩倉たちに「なぜ、妹をここまで苦しめなければならないのか」と詰問しているような節さえある。
 しかし、岩倉たちにすれば「もしも幕府が約束を守らなければ(攘夷を実行しなければ)、そのときは討幕の口実ができる」と考えていた。
 しかし関東に降嫁した和宮は、その後、同い年の家茂とは非常に仲良く暮らした。家茂はやがて第二次長州征伐の総司令官となり、大坂城で病死してしまう。

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武士は東国に限ります

近藤 勇

▼ この名言の解説
 八・一八政変の後、長州藩をはじめ尊王攘夷派は窮地に追い詰められた。テロ活動を行おうとすればすぐ新撰組が出撃してくる。
 切羽詰った浪人志士群は、大規模なテロ計画を立てた。それは、
  • 風の強い日に京都に放火する
  • 中川宮(親幕派の公家)と守護職である松平容保を殺す
  • 新撰組屯所を襲って、捕らえられている同志を救う
  • 天皇に御動座を願い、彦根あるいは長州に御案内する
 などという凄まじい計画を立てた。
 これを知った新撰組は密謀を凝らしている志士たちのアジト池田屋を急襲した。池田屋に集まっていたのは三十数人の志士たちだったが、七人が殺され、残りのほとんどが逮捕された。
 最初、近藤勇はわずか五人の部下を連れて池田屋へ踏み込んだ。土方歳三たちは別の宿を襲っていた。最後には合流する。この事件によって新撰組は一躍名を高め“壬生の狼”
 “人斬り狼”と呼ばれるようになる。
 近藤勇は経緯を江戸の養父・近藤周斎に報告した。この報告書の中に「武士はやはり東国に限ります」という一文がある。近藤から見ると、上方の武士たちは口数は多いが、なかなか手足を動かして行動しないという判断をしたのだろうか。
 あまりよけいなことを言わなかった近藤には、やはり武士は「不言実行」が望ましかったのである。だから、隊士の数が減ると近藤は必ず江戸に行って、関東地方から入隊者を募集している。
 幕府が崩壊する過程で、徳川の直参武士がほとんど役に立たなかったのに比べ、浪人集団の新撰組だけが最後まで忠節を尽くしたというのは興味深い現象だ。

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行くも憂《う》し行かぬもつらし

松平容保

▼ この名言の解説
 松平容保は幕末の会津藩主で京都守護職を務めた。
 しかし、京都守護職を任命されたときは家臣の大部分が反対した。容保の父も反対した。
 それは、江戸時代の大名家は、財政的にすべていまでいう“十割自治”であって、どんなに財政難に陥っても国(幕府)は一文の補助金もくれない。したがって、東北のように北限の適用を受けて産品に限りがあるところは、関東地方から西の地域に領地を持つ大名たちよりもハンデがあった。
 また、幕府から役を命ぜられても、役職手当は出ない。全部持ち出しだ。したがって幕府の要職を占めることは、大名家にとっては決して歓迎すべきことではなく、名誉よりもむしろ財政難の方が怖かった。会津藩の重役たちはそのために容保の就任に反対したのである。
 が、会津藩主の松平家は藩祖の保科正之以来、徳川家と特別な関係があった。保科正之は三代将軍徳川家光の実弟だ。そのため正之は会津藩の藩士に対し「我が家は他の大名家とは違う。徳川本家に何かあったときは死を覚悟して尽くさなければならぬ」と教えた。これが“会津武士道”である。
 その伝統を大切にする容保は、たとえ財政難であっても徳川本家のためには京都守護職を務めなければならないと考え、部下たちを説得した。しかし父からも反対され、彼は、
行くも憂し 行かぬもつらし如何にせん 君と親とを思ふこころを
 と苦悩の選択を和歌にした。が、京都に行った彼は名守護職であって、時の孝明天皇から二度も感状を貰っている。
 しかし、当時の佐幕派の諸大名の軍勢は弱く、容保がもっとも頼りにしたのが浪人集団の新撰組であった。
 新撰組の方も容保の徳川家に対する忠誠心を高く評価し、命を捨てて京都治安のために活動した。新撰組は「京都守護職預り」という曖昧な存在だったからである。

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あめりか船をうちやはらわん

土方歳三

▼ この名言の解説
 土方歳三はいうまでもなく新撰組の副長だ。おおらかに隊士全体を統率する局長の近藤勇に比べ、組織を保つための非情な行為を一身に背負って立つ役割を担った。憎まれ役を買って出たのである。
 新撰組というのは、幕府公認のいわば私設警察隊で、京都の治安維持を任務とした。しかし池田屋事変以来、“壬生の狼”と言われて恐れられた。とくに個人志士は、京都の狭い道を追われて逃げまくった。それだけに新撰組に対する憎しみは深い。
 土方は近藤勇と同じ武蔵(東京都)多摩の出身だ。家は豪農で、歳三は若いころは家業の薬を販売して歩いたともいう。イケメンで女性にもてた。そのためにしばしば間違いも起こした。
 江戸の柳町で道場を開いていた近藤勇の弟子になり、やがては盟友となった。新撰組の秩序を維持するための規制や、これに背いた隊士の処断などは土方がすべて行った。とくに五箇条の隊規に背いた隊士に対する処断は厳しい。
 新撰組の隊規の冒頭に「士道ニ背キマジキコト」というのがある。新撰組では隊士の前歴は問わない。したがって種々雑多な職業の人間が入隊している。しかし土方は近藤と相談して「一旦新撰組に入った者はすべて武士として扱う」という考えを実行した。
 したがって「武士にあるまじき行為を行った者は容赦なく切腹させる」という厳しい処罰方針も保った。
 近藤のほうは、ときに「ちょっと酷すぎないか」という寛容さを示したが、土方はガンコに首を横に振った。「特例を認めたら、絶対に隊の秩序は保てない」。
 幕府が崩壊するとき、近藤は新政府軍(官軍)に自首して首を斬られる。しかし土方は会津から箱館にかけて最後まで戦い抜く。そして明治二(一八六九)年五月十一日に、箱館の路上で壮烈に戦死する。
 掲げた言葉は彼の作った和歌の意訳だ。正しくは
いざさらば我も波間にこぎいでて あめりか船をうちやはらわん
 というものだ。「あめりか船をうちやはらわん」というのは攘夷思想であって、土方歳三は思想的には攘夷論者だったのだ。

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かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和たましい

久坂玄瑞

▼ この名言の解説
 久坂玄瑞は、高杉晋作と共に松下村塾における逸材だ。松陰の精神を純粋に引き継いでいたといっていい。
 藩内での活動よりも、むしろ藩外の志士たちのまとめに力を尽くした。幕末の長州藩は尊王攘夷の総本山だったが、多くの浪人志士たちが長州藩を頼った。
 そのとき、このまとめにあたったのが久坂玄瑞だ。浪人志士たちの隊を長州藩軍に組み込むことなく、独立した自主性ある組織として待遇した。だから、浪人志士たちの間で久坂玄瑞の信望は高かった。
 文久三(一八六三)年八月十八日に、あまりにも過激化し、テロ活動を横行させる尊王攘夷派に反対勢力が結集して、“八・一八の政変”を起こした。テロ行為に走る志士と、これを背後から支持する長州藩を一挙に京都からたたき出したのである。
 七人の公卿を戴いて、長州藩軍や浪人志士群が、ともに雨の中を長州に下って行った。いわゆる“七卿落ち”だ。
 このとき俯きがちな全軍に対し、久坂は即席の今様(軍歌)をつくって全員の士気を鼓舞した。しかし翌年の禁門の変で、久坂は壮烈な戦死を遂げる。

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貴様たちは醜い草の群

平野国臣

▼ この名言の解説
 平野国臣は福岡藩士で、ユニークな志士活動を行った。国粋主義者で、日本の古い衣装を身にまとっては笛を吹きながら町を歩いて、人々の目を見張らせた。
 京都に出て活動したが、猪突主義はとらなかった。「時期を見なければだめだ」という慎重論者である。
 梅田雲浜の資金調達策にも協力し、彼なりにパトロンを開発した。備中(岡山県)の豪商・三宅定太郎や、下関の豪商・白石正一郎などは、国臣のこういう運動に理解を示した代表だ。
 しかし国臣の行動に懸念を抱いた福岡藩は、彼を捕らえ監禁した。のちに許されて、国臣は再び京都に行き活発な活動を開始する。そのころ京都治安の任に当たっていた新撰組に追いまくられた。
 掲げた言葉は意訳であって正しくは、
こころよくやがてみながら苅すてん ほこらばほこれ醜の醜草
 と悔しまぎれに詠んだ歌だ。醜草というのは新撰組への蔑称だ。
 しかし捕らえられて、やがて“禁門の変”のときに、他の志士と共に幕府の手によって斬殺されてしまう。

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妻は病床に臥し、子は飢えに泣く

梅田雲浜

▼ この名言の解説
 梅田雲浜は若狭(福井県)小浜藩士だった。雲浜というのは小浜の別称なので、これを号にした。情熱的な尊王家で、安政の大獄で処断された頼三樹三郎や梁川星巌たちと交流した。
 彼は熱烈な尊王攘夷論者ではあったが、単なる思想家ではなく実践行動の面でも力量を発揮した。
 とくに尊王運動にも資金が必要だと考え、ユニークな資金調達組織を考え出した。それは、上方の品物を長州藩に輸入し、長州藩から藩の製品を上方に輸出させるという方法だ。そのために雲浜は上方商会を作り、長州藩内にも商事会社的な組織を作らせた。
 当時は、かなり景気がよかったらしい。そのため吉田松陰は梅田雲浜を「志士というよりもむしろ商人といった方がいい」と皮肉っている。
 そんなとき雲浜の元主人である若狭小浜藩主の酒井忠義が京都所司代に就任した。酒井にとって家来の雲浜が京都で反幕行動の中心になっていることは許せなかった。
 結果、雲浜は逮捕された。江戸の牢で取調べ中に、病死した。辞世は、
君が代を思う心の一筋に わが身ありとは思わざりけり
 である。雲浜は幕末の“個人志士の時代”に最も輝いた典型だ。

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いま天下に事が起これば、解決の中心になるのは農民と庶民だ

橋本左内

▼ この名言の解説
 橋本左内は越前藩に仕える医者だった。大坂の適々斎塾に入って、主宰者の緒方洪庵からオランダ医学を学んだ。
 昼間の学習が終わると、夜そっと塾を抜け出て大坂の橋の下に寝ている病人やけが人を治療した話は有名だ。ある夜、橋本のあとをつけた塾頭の福沢諭吉が橋本の美しい行動に感動したという。
 しかし左内は時の藩主・松平慶永(春嶽)に信頼され、政治活動に飛び込んだ。松永慶永たちは阿部正弘や島津斉彬などと組んで、一橋慶喜を次の将軍に推し立てようとしていた。左内はこれを京都朝廷に工作し、天皇の承認を得ようと走り回った。
 その工作が半ば成功したとき、井伊直弼側の巻き返しが起こった。そのため橋本左内は井伊の腹心たちの“ブラックリスト”に載せられてしまった。
 結局、井伊側の巻き返しになって一橋慶喜は退けられ、井伊側が推し立てた紀州徳川家の慶福が第十四代将軍になり、家茂となった。
 井伊は反井伊派の連中をすべて処断した。安政の大獄である。橋本左内も悪謀の首謀者として首を斬られた。
 冒頭の言葉は彼が十五歳の時に書いた『啓発録』のなかにある一文だ。意訳してあるが、左内は「いまの世の中に立つのは農民や庶民であって武士ではない。しかしこの状況は口惜しい。自分も武士になって活躍したかったが、医者の身なので残念だ」と述べている。
 だから、オランダ医学を学んだものの、主人慶永の信頼によって政治活動に生命燃焼の時期をもてたことは、左内にとって満足だったかもしれない。

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きれと呉れろとやはらかに 真わたで首のこの異見
八千八声のほととぎす 血を吐くよりも猶《なお》つらい

桂小五郎

▼ この名言の解説
 桂小五郎は後に“明治維新の元勲”のひとりに加えられる。
 しかし、幕末のころは“逃げの小五郎”と呼ばれていた。肝心な事件の時に絶対にその場にいなかったからである。新撰(選)組に斬り込まれた池田屋事変のときも、その後の“禁門の変”のときにも現場にいない。
 彼はクールな政治家で暴動を嫌った。つまり「暴動で歴史が変わるはずはない」という態度を保ち続けた。が、そうは言うものの「言論だけでも歴史は動かない」とも思っていた。
 したがって、他人が武力行使をする場合にはこれを傍観し、歴史の動きをじっと見守った。そして「そのうちに必ずおれの出番が来る」という、いわば“タニマチ”の姿勢を保った。
 彼は決して臆病な人間ではない。若い頃から江戸の著名な剣客・斎藤弥九郎の道場で免許皆伝になり、塾頭をつとめた。しかし実際の斬り合いはそれほど経験していない。
 坂本竜馬は、「桂さんはいつもおばあさんの繰言ばかり言っている」と皮肉を言う。
 しかし桂の本質をよく見抜いていた高杉晋作は、「古い家をぶっ壊すのはおれの方が得意だが、新しい家を建てるのは桂にはかなわない」と言っていた。だから高杉は奇兵隊の反乱で掌握した長州藩政府をそのまま桂に引き渡す。桂はここを起点にして、討幕の路線をしっかりと歩んでいく。
 かなりのイケメンだったから、京都花街では人気があった。芸者幾松にいろいろ援助を受けた話は有名だ。幾松はのちに桂の正妻になる。

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三千世界の烏を殺し 主《ぬし》と朝寝がしてみたい

高杉晋作

▼ この名言の解説
 高杉晋作は“狂”という師・吉田松陰の言葉をそのまま自分の行動に活用していた人物だが、風流心も非常に強かった。
 彼はもともと詩人だ。京都遊郭で遊んだことも多い。そんなとき、妓楼でプロの女性と宿泊した朝、こんな都都逸を詠んだ。
 朝になると、烏がカアカアと鳴いてやかましい。そこで晋作は「この世の中の烏を全部殺して、相手の女性とゆっくり寝ていたい」というふざけた歌を詠んだのである。
 晋作は師の松陰が死んだあと、藩の命令によって中国の上海(シャンハイ)に行っている。そこで彼は、中国の国土の一部が占領され、しかも中国人民が列強諸国の奴隷として使われている有様をつぶさに見た。このとき晋作は「日本を絶対に清国の二の舞にしてはならない」ということを強く感じた。
 が、いまの日本の国力で列強と戦争しても到底勝てるはずはない。それなら思い切って開国し、いままで禁じられていた大きな船を造って、積極的に日本の方から外国へ乗り出して、その勢威を張るべきだと考えた。したがって、この時点で過激な攘夷論者であった晋作は、開国論者に変わったのである。
 しかし帰国後もそれを表に出すことはなく、依然として過激な攘夷行動を続けた。イギリス公使館を焼き討ちしたり、あるいは開国派の要人を暗殺する企てを立てたりする。
 これは晋作にすれば「幕府に攘夷を迫ることによって、幕府はいよいよ窮境に陥る。やがては自ら政権を投げ出さざるを得ない状況にまで追い込んでやる」という戦略があった。
 だから「いまの幕府ではとてもできるはずのない無理難題を次から次へと吹っかけてやる」というのがこの頃の彼の行動原則であった。
 しかし、余暇には京都花街にあって、こんな都都逸も作っていたのである。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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