NPO法人武士道協会

これまでの名言集

天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 これは坂本竜馬が土佐藩の重役だった後藤象二郎に、土佐藩船「夕顔」の船中で提案したものだ。有名な「船中八策」である。
 これをもとに後藤は旧藩主の山内容堂に建策し、最後の将軍徳川慶喜に、「大政奉還」を行うことを勧めたといわれる。
 しかしこの船中八策は、単に大政奉還のことだけが書かれているわけではない。「上下議政局を設け」と議会の設置も提言している。有名な「万機宜しく公議に決すべき事」というのは、明治維新後、明治天皇が「五箇条の誓文」として神に誓った誓文の中に「万機公論に決すべし」という有名な一文になっていく。
 だから竜馬の船中八策は、幕府消滅後の新政府の経営方針のほとんどを網羅しているといっていい。
 しかしこれは坂本竜馬一人の知恵によるわけではなく、それまでにかれが接触した横井小楠や大久保一翁や勝海舟、あるいは永井尚志など先輩たちが口にしていた言葉を拾い集めて、大成させたものだ。
 その意味では坂本竜馬の発想は、クリエイティブではなくむしろアダプテイション(潤色)の達人だったといっていい。つまり他人から得たヒントをさらに拡大して、大きなものに仕立てる能力に富んでいたのである。その中でもこの船中八策は竜馬最大の作品だといっていいだろう。

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幕府には日本政府の資格がない

薩摩藩

▼ この名言の解説
 これはパリで開かれた万国博覧会のときに単独に出品した薩摩藩の代表がいった言葉だ。
 幕府は万博への出品に対し「幕府で取りまとめるから各大名は出品する品物を申告するように」と指示した。
 ところが薩摩藩は勝手に万博にガラス工芸品などを出品した。しかも、出品者をはっきりさせるために○に十の字の薩摩藩旗を推し立てた。見物客たちは「日本には主権政府が複数あるのか」と首をかしげたという。
 しかし薩摩藩の出品したガラス工芸品は、当時世界一を誇っていたドイツの水準をはるかに抜いていた。みんなびっくりした。そして「日本にはこういうすぐれた工芸品がある。技術水準は大したものだ」と改めて日本を見直したという。
 有卦に入った薩摩藩は、パリにいた代表たちがしきりに「今の幕府には日本政府の資格がありません。真の資格者は天皇です」とさかんに宣伝しまくった。
 このことは当然、万博に出向していた幕府代表の耳にも入る。幕府から万博に出向していた責任者の中に渋沢栄一がいる。渋沢は万博出向者の事務長のようなことをしていたが、この時、かれはパリのナショナルバンクの頭取から、株式制度と銀行制度を教えられ、後に日本に戻って実現する。

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いまの幕府には人材がいない

ロッシュ

▼ この名言の解説
 フランス公使ロッシュは徳川慶喜に支持を約束し、幕府の近代化にはいろいろ貢献した。
 その中で「すぐれた人材をもっと登用すべきだ」と助言している。が、そのロッシュが見ても当時の幕府には能力のある人間が少なかった。
 ロッシュの助言によって慶喜は幕府の組織を改め、総裁制にした。が、六局の長として任命された総裁は、ほとんど能無しでどうにもならない。
 わずかに外国事務総裁に任命された小笠原長行(唐津藩の世子)と勘定奉行の小栗忠順、そして外国奉行の栗本鯤(鋤雲)などの少数のフランス派官僚が目に付くだけだ。
 さすがのロッシュも「これではどうにもならない」と考えはじめた。本国の対日政策も次第に冷えていく。

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祖宗以来、全権はわたしの手にある

徳川慶喜

▼ この名言の解説
 国内の大名が自分に従わなくなっただけでなく、外国も次第に疑いを持つようになった。将軍の威令が行われなくなってきたのである。慶喜は躍起になった。
 そこでフランス公使ロッシュにいわれたように、「兵庫開港は、天皇の許可を求めずに自分の手で行おう」と考えた。
 が、周りが止めた。やはり当時の国情では勅許がなければ日本の港は開けなくなっていた。そこで改めて朝廷に申請書を出した。朝廷は蹴った。
 そのため慶喜は外国公使を集め謁見の場で、「祖宗以来、日本の全権はわたしの手にある。したがって条約を実行するのはわたしである」と大見得を切った。
 これは徳川家康が幕府を開いたときに、天皇や公家に対し「今後行うべき仕事の範囲」を決めた法度に署名捺印させたからである。
 つまり天皇や公家は「政治には一切手を出さない。日本の神事や古文化の伝承に専念する」という念書を入れている。これが将軍や幕府側の「主権はこっちにある」という主張の根拠なのだ。
 ところが幕末の反幕府勢力は「内政権はそうかもしれないが、外交権については触れていない」と反撃した。

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あなたをマジェスティ(陛下)とはよびませんよ

パークス

▼ この名言の解説
 散々時間稼ぎをして勿体をつけた上で将軍になった徳川慶喜は、慶応二(一八六六)年の十二月一日と二日に「外国の公使・総領事との引見儀式を行う」とイギリス・フランス・アメリカ・オランダの各国に通知した。
 四国の代表は集まって「どう対応するか」と相談した。フランス公使のロッシュは「すぐ大坂に行くべきだ」と主張する。かれは新将軍慶喜とはべったりだから、早く慶喜の主権を認めてやりたい。
 ところがパークスが「もし行ったとしても、新将軍のことを何と呼ぶのだ?」と聞いた。ロッシュは「もちろんマジェスティ(陛下)だ」と応ずる。
 パークスは異議を唱えた。「それはおかしい。われわれと批准した条約を将軍は天皇に許可を求めている。そうなると将軍の立場は総理大臣のようなものであって、実際の主権者は天皇ではないのか」といった。ロッシュは舌打ちをした。
「いま、そんな難しいことを言うべきではない。現実に条約を締結し、批准したのは将軍と幕府だ」
「では、なぜ勅許を求めるのだ」
 この論争は、日本国内の有識者の間でも行われているように、結論が出ない。
 結局、パークスたちは大坂には行かなかった。ロッシュだけが単独で大坂に行き、慶喜に会って、
「早くあなたが主権者であることを証明しろ。それには兵庫開港を独断で行うことだ」とけしかけた。

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日本にはミカドとタイクンと君主がふたりいる

パークス

▼ この名言の解説
 これは駐日イギリス公使パークスが感じた日本の政治制度だ。
 タイクン(将軍)の方は、「日本の外交権は自分にある。だから、外国との条約は自分の名において結ぶ」といっているが、実際には京都の帝の許可がなければ条約は結べない。
 パークスはアーネスト・サトウなどの助言によって、この事実を認識した。「ヘンナクニダ」と感じた。そしてサトウには「いずれは日本も国王ただ一人とならなくてはすまないだろう」と感想を漏らしている。
 すでに薩英戦争の直後、鹿児島を訪ねたパークスは自分の考えを西郷隆盛に述べている。しかし、「こんなことを外国人が言い出すといろいろと問題を起すでしょうから、どうかあなた方、力のある大名家が国王を早く一人に絞るように御努力ください」といっている。ずるい。
 しかし、外国側にしても日本の外交権を持つ存在が複数あったのでは困る。西郷にこんなことを言うパークスは、すでに将軍や幕府の力を見限っていたといっていいだろう。
 したがってアーネスト・サトウや、武器商人のグラバーなどが「徳川幕府への最大の反逆者はわれわれかもしれない」と、後に述懐するのも理がある。
 こうなると、フランスは徳川幕府を応援し、イギリスは薩摩藩や長州藩などの西南雄藩を応援したということになる。
 したがって明治維新実現の国内戦争は、ある意味でイギリスとフランスの代理戦争だったとも言える。

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大君が日本の君主だというのはウソだ

アーネスト・サトウ

▼ この名言の解説
 アーネスト・サトウは駐日イギリス公使館の通訳だ。
 幕末の日本の状況を見ていてかれは「日本の外交権は誰にあるのか」ということを突き詰めて考えた。そして結論を出した。
 それは「将軍は一大名にすぎない。なぜなら、将軍と同じような権限を持つ大名が日本国内には沢山いるからだ。かれらは、自分の領地内の港を開閉する権限を持っている。そしてそれを統制できるのは天皇だけだ。天皇こそ日本の主権者なのだ」と断定した。
 だから日本のどこの港を開くかということは、その港を管理している大名と相談すべきで、大名との協議が整ったら今度は天皇にその許可を求めればよい、という手続き論を唱えはじめた。
 その挙句、かれは、「すでに大君と結んでいる条約もその意味では非常に不安定なものだ。むしろこれを解約して改めて自分が示す方法によるべきだろう」とも言っている。
 この論を進めて「日本の大名は全員が参加する合議体を作るべきだ。そしてその合議体の上に天皇を戴くべきである」と、まるで日本の討幕の志士が考えたような政体論を展開している。これが有名な「英国策論」だ。
 幕府側では必死になって「日本の外交権は将軍にある」と言い募るが、しかし実際に条約を結ぶときに京都の勅許を求める体たらくではサトウにこう言われても仕方がなかろう。

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あらうらめしの小栗殿

旗本一同

▼ この名言の解説
 これは幕府最後の勘定奉行(大蔵大臣)小栗上野介忠順に向けられた旗本たちのうらみの声だ。
 小栗上野介は三河譜代の幕臣だったが、徳川幕府維持のための思い切った改革を行った。外国との取引に商社を設立・信用経済の近代的運用・公債の発行と償却方法の検討・幕臣の給与表の作成・予算制度の導入など、現代に通ずる幕府財政改革に力を尽くした。しかもかれはこういう事業を行うために幕臣たちから献金をさせている。
 それがあまりにも激しかったので、旗本一同が音をあげて、「あらうらめしの小栗殿」と言い合ったのだ。
 小栗は徳川慶喜の方針を尊重し、フランス国と組んで横須賀に製鉄所・ドック・造船所・武器庫などを持つ軍事施設を建設した。フランスのツーロン港がモデルだという。
 また陸軍の兵制をフランス式に切り替えた。さらに、藩を廃止し郡県制を採ろうとまでした。
 だから、彼の考えた日本の近代化構想は明治になってから新政府がほとんど採用したといっていい。討幕側からすれば小栗は「敵ながらあっぱれ」といわれる存在だった。
 徳川慶喜の大政奉還には真っ向から反対した。また王政復古後も「幕府はまだ戦える」といって主戦論を唱えた。
 これを嫌われて慶喜から首にされ、領地の上野国(群馬県)の一村に籠って、押し寄せて来た官軍に斬首されたのは有名だ。
 横須賀の公園には開発の恩人として銅像が建っている。

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強幹培根の大策

徳川慶喜

▼ この名言の解説
 第二次長州征伐の総指揮を執った十四代将軍徳川家茂は、慶応二(一八六六)年七月二十日に大坂城で急死した。まだ二十歳だった。
 心優しい家茂にとっては、ここまでこじれてしまった日本国情をクリアするのは無理だった。おそらく神経を極度に痛めていたに違いない。
 こんな時の跡継ぎは誰がなってもいい迷惑だ。それを見越したのだろう、多くの人から、「次の将軍はあの人だ」と目されていた徳川慶喜は、簡単に将軍職は引き受けなかった。家茂死後一カ月後の八月二十日に、ようやく徳川本家の相続だけは承知した。しかし将軍にはならない。そのまま約半年空白期間が続く。
 徳川慶喜は長州藩を憎み、徳川家を相続すると同時に、かれは「長州大討込み」と称して、第二次長州征伐の総指揮官になった。しかし各方面で幕軍は連戦連敗した。
「国内では頼りになる大名はいない」と判断した慶喜は、よりにもよってフランス国に頼ることにした。
 このころの駐日公使はロッシュといった。ロッシュはフランスで必要な生糸を独占したいがために、幕府軍の近代化・OA化に力を入れた。横須賀に造船所やドックを造ったのもフランス側の協力による。
 徳川慶喜が洋服を着て馬に乗っている写真をよく見るが、あれはナポレオン三世が慶喜に贈ったものだ。
「強幹培根」というのは幹を強くし根も強靭にするという意味で、それを行わせてくれるのはフランスだという意味のことを、慶喜はロッシュ公使に書き送っている。
 フランスの協力によって幕府体制を強化したあげく、慶喜は「誰が買いに来るか、高く売りつけてやる」と、将軍就任の取引をしようと待ち構えていた。

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進退ここに極まり血泣鳴号す

岩倉具視

▼ この名言の解説
 これは慶応二(一八六六)年十二月二十五日に、孝明天皇が亡くなったことを聞いて漏らした岩倉具視の感慨だ。
 かれはこの言葉の後に「無量の極みに至れり、臣の一身においてもわがこと終れり、一世の果てここにとどまり、片言といへどももはや述ぶるに所なし」とその悲しみを綴っている。
 孝明天皇は妹和宮を徳川家茂に嫁がせて以来、最後まで公武合体を保ち抜いた。婚家先である徳川家を滅ぼそうなどという気は全くなかった。
 しかし天皇の影響力は大きい。討幕派にとっては次第に鬱陶しい存在になってきたことは事実だ。そのため「孝明天皇は毒殺された」という説さえ流れた。しかも「毒殺者は岩倉具視である」ともいわれた。
 しかし別項でも書いたように岩倉具視は孝明天皇に対して無二の忠臣だ。しかも「王政復古を実現し天皇親政の世に戻したい」と願うかれが、そんなことをするはずがない。
 ここに書かれた悲しみは本物だと信じていいだろう。そして、この悲しみで逆に「一日も早く幕府を滅ぼして、天皇の霊をお慰めしよう」という気持がいよいよ高まったことは事実だ。
 身分の低い公家だった岩倉は謀略家だ。武力を持たない公家は知力以外武器がない。そのためかれは多くの敵を作った。
 おそらくこの毒殺説も敵側から流されたガセネタである。しかし、この毒殺説を信じた人々は多い。幕末維新研究者の中にも沢山いた。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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