NPO法人武士道協会

これまでの名言集

西郷さんは、得体の知れない太鼓です。大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く

坂本竜馬

▼ この名言の解説
 元治元(一八六四)年に起こった“池田屋事変”と“禁門の変”に、勝海舟が主宰する神戸海軍操練所の学生が二人参加していた。
 かねてから勝海舟に悪意を持っていた幕府首脳部は、それ見たことかと鬼の首でも取ったようになり、操練所の即時閉鎖、同時に勝の操練所主任兼海軍奉行罷免という行為に出た。
 勝は切れた。そこで幕府を見限り、「薩摩の西郷吉之助に幕府の実態をばらそう」と思い立った。
 まず弟子の坂本竜馬を西郷のところに差し向けた。西郷とはどういう人物かということを確かめさせたのであった。
 西郷に会った坂本は圧倒された。そして戻って来た。勝から、「西郷さんはどんな人物だった」と聞かれると、「西郷さんは得体が知れません。大きな太鼓のようです。大きく叩けば大きく叩き返し、小さく叩けば小さく叩き返します。歯が立ちません」と正直な感想を述べた。
 勝は満足した。(そういう人物こそ、自分が長年求めていた人なのだ)と感じたからである。

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士道忘却

横井小楠

▼ この名言の解説
 これは横井小楠が自分でいった言葉ではない。小楠に対し彼の属する肥後熊本藩の首脳部が与えた罪名である。小楠は「士道忘却のため、士籍を剥奪する」という罰を受けた。
 具体的には、かれが江戸の藩邸で友人と話しているときに、突然かれを開国論者と見た刺客が襲ってきた。
 ところが小楠は自宅に刀を忘れてきた。そこで刺客に、「いま刀を取ってくるから待っててくれ」といって自宅へ走った。刀を取って戻ってくると、友人は殺されていて刺客はすでに去っていた。待ちくたびれたのである。
 これが知れて小楠は、「おまえは士道を忘却している。武士にあるまじき振る舞いだ。したがって武士の資格を剥奪する」といわれ、熊本の郊外に閉居を命ぜられた。
 しかしこういうときに、思想家や学者は本来自分が書きたかったことを一冊の本にまとめる。小楠も同じだった。

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大義とは世界の世話焼きになることだ

横井小楠

▼ この名言の解説
 横井小楠は別なところで「世界には有道の国と無道の国があるから、日本は有道の国にならなければならない」と告げた。では有道の国とはどういう国かということを、この大義論で述べている。
 小楠は、「日本はこの際、仁義の大道を起こすべきだ。強国になることではない。強があれば必ず弱がある。この道を明らかにして世界の世話焼きにならなければならない。(弾丸)一発で一万も二万も戦死するというようなことは必ずやめさせなければならない。
 そこでわが日本は、インドのような植民地になるか、世界第一等の仁義の国になるか、とんとこのふた筋のうち、このほかには道はない」と言っている。
 これが混沌とした幕末の国際状況における「日本の進むべき道」すなわち日本国の新国家構想であった。

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天子は天の代官なり

西郷隆盛

▼ この名言の解説
 西郷隆盛の生涯を通ずる思想は「敬天愛人(天を敬い人を愛す)」というものだった。
 かれにそういう考えを持たせた参考書は『近思録』『言志録』『嚶鳴館遺草』などがある。これらのテキストはすべて「天」という存在を至高のものとしている。だから西郷は常に「人を相手とせず天を相手にせよ」といっていた。
 これを幕末の政治体制に当てはめれば、西郷は、天・天子・諸侯・代官・村役人というように考えていた。
 しかし西郷にとって天とは一体何のことだろうか。西郷自身は「天とは道のことだ」と告げている。単なるロードという意味ではなく、古代中国における“タオ(道)”のことだ。
 古代中国で老子たちがいう“道”というのは、宇宙のことであって、それも目に見えない混沌としたものだ。しかし万物の生ずるもとであり、同時に倫理道徳の発信源でもあった。
 したがって「この道に対しては、天ですら背くことはできない」という厳しい規定の仕方をする。『嚶鳴館遺草』から西郷は「政治家は常に民の父母でなければならない」ということを学んだ。

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島津斉彬を内政大臣にせよ

橋本左内

▼ この名言の解説
 橋本左内は越前(福井県)藩主松平慶永(春嶽)の片腕となって、国政改革に走り回った人物だ。が、もともとは医者だ。大坂の適々斎塾(緒方洪庵主宰)でオランダ医学を学んだ。
 しかし、主人の信頼が厚く京都における工作活動を任された。このとき左内は国の人事改革について次のような意見を発表した。
「一橋慶喜を将軍の跡継ぎとする。松平慶永・徳川斉昭・島津斉彬を内政全権大臣とする。肥前の鍋島直正を外務大臣とする。
 そして幕吏中の俊才川路聖謨・永井尚志・岩瀬忠震らを各大臣の補佐役(次官)とする。そして全国の有名達識の人物を身分にかかわらず御儒者という名目で抜擢して、各大臣のブレーンとする。
 尾張藩・因幡藩は京都警備にあてる。彦根藩・大垣藩に協力させる。北海道には宇和島藩主の伊達宗城と土佐藩主の山内豊信(容堂)を派遣する。
 ほか、旗本のすぐれたものを任用するなどすれば、今のままでも相当なことがやれるはずだ」

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日の丸を国旗にせよ

島津斉彬

▼ この名言の解説
 明治国家は日の丸を国旗にした。その遠因は島津斉彬のこの言葉にある。島津斉彬は薩摩藩の海軍に必ず日の丸を掲げさせた。これが国旗の始まりだといわれる。
 斉彬は、「いまの世では、日本が一体一致の兵備でなければ、外国に対する事ができない。それには幕府も諸大名もこれまで一国一軍単位の心づもりでは、この国を守ることはできない。日本が一致一体となって、武器も何も同じようなものを備えてこそ、この国を守る事ができるのだ」といっている。
 しかし斉彬のいう日本の一本化というのは、必ずしも徳川幕府を討滅させるということではない。今の幕府を認めたうえで、その構造改革を行い、今まで政権の蚊帳の外に置かれてきた外様大名も加えた上で、いってみれば連合政権を作って、その連合政権の発する指示に基づき、全大名が心を揃えて国防の任に当たるべきだという議論である。
 だからこの段階では、長州藩のように尊王攘夷がそのまま尊王討幕に発展してゆく思想の変遷はない。
 薩摩藩が一時期は幕府に与して、過激な長州藩を京都から追い出すような行動をとったのは、この斉彬の意志に基づいているだろう。
 西郷も大久保もあるいは斉彬の弟久光も「斉彬公の遺志をそのまま引き継ぐ」という姿勢をかなり長い間保っていた。斉彬の影響はそれほど大きかったのである。

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窮理《きゅうり》と舎密《セイミ》は経済の根本だ 

島津斉彬

▼ この名言の解説
 窮理というのは物理学のことで、舎密というのは化学のことだ。いずれにしても、西洋のすぐれた科学を積極的に受け入れて、日本も経済と軍事の近代化を図るべきだという意見だ。
 斉彬は、優柔不断な開国論ではなく積極開国論を唱えていた。したがって、幕府は鎖国下における大船建造禁止令を廃止し、各藩も積極的に大きな船を造ってこちらから外国に乗り出し、遅れている科学水準を高めるべきだという意見であった。
 そのためには、国内体制を再整備する必要がある。つまり幕府を強化拡充する必要がある。それには、たとえ外様大名でも大海に面したところに領土を持つ大名は、それぞれ外国の脅威を受けた経験があるので、これを登用すべきだという考えを持っていた。
 それは老中筆頭阿部正弘も同じで、だからこそ西南の雄、島津斉彬に注目したのである。
 斉彬はこのために島津一族の娘を公家近衛家の養女にして、第十三代将軍家定の妻に押し込んだ。これによって、大奥と江戸城内における発言権を強めようとしたのである。阿部もこれに賛同していた。
 明治維新後、日本政府は国是として“ヨーロッパに追いつけ追い越せ”と叫んだ。この言葉の元は島津斉彬の「窮理と舎密は経済の根本だ」というところに基づいている。明治新政府を運営した西郷隆盛や大久保利通は、すべて斉彬の弟子だといっていいからだ。
 斉彬は自分の言葉を鹿児島で実行した。島津家の別邸磯庭園に巨大な工業都市をつくったのはその証明である。

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婚家を見捨てれば末代まで不義者といわれます

和宮

▼ この名言の解説
 公武合体のために、文字通り政略結婚をさせられた和宮は、第十四代将軍徳川家茂の妻になった。しかし同年の家茂とは、結構仲良く暮らすようになった。
 前代の将軍家定の妻天璋院がかなり苛めをしたらしい。しかし和宮はまめまめしく姑に仕えてソフトな対応をした。
 夫の家茂はやがて第二次長州征伐の総司令官となり、大坂城で指揮を執ることになった。しかし慶応二(一八六六)年、突然急死してしまった。
 和宮はこの時「土産には何がほしい?」と聞く夫に、「京の錦の布が欲しゅうございます」と応えた。
 しかし土産の錦の布が届けられたのは、夫の遺体と共にであった。この時和宮は
三つせ川世の柵のなかりせば 君もろともにわたらましものを
 と詠んだ。
 やがて徳川幕府は潰され、京都から、かつての許婚だった有栖川宮が総督となって江戸へやって来た。
 このとき和宮は必死になって徳川家の存続のために努力をする。有栖川宮をはじめ、手紙を送り続ける。
「家は亡び親族危窮を見捨存命候て末代迄も不義者と申され候ては」という文章が、慶応四(一八六八)年二月二十六日の手紙の一節にある。
 この努力が功を奏して、徳川家は駿府(静岡)で七十万石を与えられ、存続を認められた。
 和宮はそのまま東京に住み、明治十(一八七七)年九月二日に死ぬ。遺骸は生前の希望によって、夫の眠る東京都港区増上寺に埋葬された。

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坂本先生、奉行所の役人が来ます!

お竜

▼ この名言の解説
 慶応二(一八六六)年一月二十三日の夜のことだ。前日に、竜馬は薩長同盟を結ばせていた。ほっとしたのだろう。定宿の伏見寺田屋で酒を飲んでいた。
 やがて妻になるお竜が、下の階で風呂に入っていた。窓から役人の襲撃を見た。そこでそのまま階段を駆け上がり、急を知らせた。竜馬はお竜が裸なのを見て、「なんだ、その格好は」と眉をしかめた。
 やがて襲ってきた伏見奉行所の捕吏たちと竜馬はピストルで戦った。やがて屋根伝いに逃げた。
 お竜は衣類を身につけるとすぐ伏見の薩摩屋敷に走った。そしてこのことを知らせた。薩摩側では指を切られた竜馬をすぐ匿った。
 ほとぼりが冷めると、西郷吉之助の世話で竜馬とお竜は新婚旅行に旅立った。薩摩では西郷の家で世話になった。
 竜馬とお竜は高千穂の峰に登り、頂上にあったアマノサカホコを、逆さにするという悪戯もしたらしい。
 竜馬が暗殺された後は、土佐(高知県)の竜馬の実家に行ったが、竜馬の姉の乙女とは気が合わずにすぐ飛び出した。
 晩年はどうも身持ちがよくなかったらしく、酒を飲んで酔っ払っては「わたしは坂本竜馬の妻だよ!」とわめき散らしたという。
 商人の西村松兵衛と再婚したが明治三十九(一九〇六)年に六十六歳で死んだ。

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わたくしの夫は坂本竜馬です

千葉佐那

▼ この名言の解説
 幕末の江戸には“三大道場”と呼ばれる剣術の道場があった。斎藤弥九郎道場・桃井春蔵道場・千葉周作道場である。
 千葉道場には京橋桶町に分家の道場があった。主は定吉といって周作の弟だ。娘がいた。それが佐那だ。子供のときから剣術が強く、門人たちは道場主の定吉よりも佐那に稽古をつけられる事が多かった。
 入門者の中に土佐からやって来た坂本竜馬がいた。約五年この道場で学んだ。主として佐那からである。その間、二人の間に恋情が芽生えたらしい。
 が、政治活動に忙しい竜馬はやがて京都に行き、そっちに居ついてしまった。そして慶応三(一八六七)年十一月十五日に暗殺されてしまう。
 佐那はその後、甲州(山梨県)に行った。そして鍼・灸の術で生計を立てたという。一人暮らしを続けたが、詮索するものがいると静かに「わたしの夫は坂本竜馬です」と応えたという。
 明治二十九(一八九六)年に、甲府で寂しく死んだ。その墓には「坂本竜馬室(妻)」と彫られているという。
 こんな佐那に対して竜馬の方はどういう気持を持っていたのだろうか。推察に過ぎないが、竜馬も江戸暮らしをしているころは同じ思いを持っていたと思う。しかし照れ屋の竜馬は佐那が師の娘なので、あるいは所詮は高嶺の花だと感じていたかもしれない。
 しかし佐那の方は、「竜馬さんはわたしを愛している」という確かな手ごたえを感じて、それを生涯の支えとして生き抜いたのだろう。
 幕末に咲いた、美しい一輪の花である。

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書籍名 : 幕末 男たちの名言
時代を超えて甦る「大和魂」
発  行 : PHP研究所
著  者 : 童門冬二
定  価 : 950円(税別)
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